オパール編 [10]


91 お試し期間中。 ◆cLGv3nh2eA sage 2005/08/08(月) 01:12:23 

徐々に近付いてくるコンクリート製の固い地面は、確実に矢作を死へと導いている。 
柴田の石の力で人間不信に陥り心を蝕まれていた彼は、その苦しさから逃れる為に死を選んだ。 
「…誰も悲しまないだろうしな。良いんだ…これで楽になれるんだ」 
そう呟き落下に身を任せようとした矢作の身体に突然ガクンと衝撃が走った。 
見上げていた星空に真っ暗な影が落ちてきたと思った瞬間、 
その影から伸びてきた腕に肩を掴まれたのだった。 
「あれ…小木?…何やってんの?」 
落下のショックで落ち着きを取り戻していた矢作は、突然目の前に現れた相方の姿に声を上げる。 
「何って、あれ?俺何やってんだろ…」 
無我夢中とはまさにあの時の状態のことなのだろう。 
自分でも状況を把握できていない小木は矢作の問いに曖昧な答えしかできないでいる。 
「俺が飛び降りたから、追いかけてきたのか?」 
自分達の危機的状況を理解できていないのか、ゆったりとした口調で矢作は訊ねた。 
「ああ、そうだ!驚いたよ。屋上でやっと矢作を見つけた思ったら、急に目の前で消えちゃうんだから」 
小木は今思い出したといわんばかりに、大げさに手を叩いてみせた。 
その目には元の調子に戻りつつある相方、矢作の姿が映っていた。

「なぁ…どうして追っかけてきたんだよ…」 
改めて辺りを見回せば速度はやけに遅いものの、二人の体は確実に地面へと近付いて行っている。 
「どうしてって?」 
「だって…このまま落っこちて行ったら俺たち死んじまうんだぜ?」 
相方のあまりの緊張感の無さに、矢作は調子を狂わされているような気分になる。 
「でも、ほっとけなかったみたい…大事な相方でしょ?」 
小木は傍目からすれば気持ち悪いくらいの、しかし彼らにとっては当たり前な笑みを浮かべた。 
「俺と一緒に、心中しても良いっていうのか?」 
「…それは、困るかな」 
疑り深げに訊ねた矢作に、今までの笑顔とは一変して困ったような顔で小木は答える。 
「…お前、やっぱ面白れぇな」 
それを見た矢作は、あの事件以来久し振りに笑いながらそう言った。 
「なに、お前には負けるよ…」 
久し振りの相方の微笑みに、小木もつられて表情を崩した。 

矢作の石が彼のシャツの胸ポケットで光っているのが見える。 
元の石の輝きと、侵入者である赤黒い光が争っているかの様に混ざり合い分裂し、 
それはまるでお互いを消そうとしているかの様に見えた。 
その光景を見た小木は、矢作に掛けられていた暗示が解けつつあることを悟った。 
「なぁ矢作」 
赤黒い光が小さくなったのを見計らって、小木は矢作に声を掛ける。 
「ん?」 
何だよ改まって、と矢作は少し眉を顰めて言った。 
「俺さ、今凄くなりたいものがあるんだ」 
その言葉に反応し、矢作の石の輝きがいっそう強くなる。 
「…お前のなりたいもんにはならしてやりてぇからな…何でも言っていいよ」 
少し考えたような素振りをしてから快く了承する。 
何度も見たことのあるそのやりとりは、彼等の漫才中に良くやっていたものだった。 
「俺、俺さ…相方に心から信頼してもらえる相方になりたい」

「…そんなんで、いいのか?」 
信頼、という言葉に反応し赤黒い輝きが完全に石の輝きに飲み込まれたのを、小木は見逃さなかった。 
「凄く大事なことじゃない?」 
駄目押しの一言。これで終わりだ、と心の中で小木は呟く。 
「ああ。やっぱ俺の相方はお前しかいねぇよ」 
照れ臭そうに矢作が言った瞬間、彼の目の曇りは完全に晴れた。 
矢作の心を閉ざし続けていた暗示が解けたことを示すかのように。 
それとほぼ同時に彼の石から弾き出された赤黒い光の塊は、 
物凄い速度で空中へと飛び出してそのまま建物内へと消えて行った。 

「で、どうしよっか…」 
当然のことながら、暗示が解けたからといって時間が戻るわけではない。 
「どうしようね…」 
彼等の身体は未だ空中を落下し続けているのだった。 
ゆっくりとした速度ながらも、徐々に地面は近付いている。 

「ぁ、アカン!!もう無理や…力が、届かへんっ!!」 
今まで屋上から二人の落下スピードを下げていた後藤が遂に悲痛な叫び声をあげた。 
身体に掛かっていた重力による体力の消耗と、 
術者と対象との距離が開き過ぎたのとで能力の限界が来たのだった。 
「光が…」 
後藤を支え続けていた岩尾の目は輝きを失っていく相方の石を捉えていた。 
屋上からは夜の闇の所為で二人を殆ど確認することが出来ない。 
「そんな…諦めるなよ!」 
がんばれ、そう言おうとした有田を上田が止めた。 
「言うな。これ以上は…後藤が死んじまう」 
此処まで頑張った後藤にこれ以上頑張れというのは酷過ぎる。 
無理にやらせて力の反動で圧死されるわけにもいかない。 
「でも、それじゃああの二人は!!」 
襟を掴んで声を張る相方の腕を思い切り払い、上田はそれ以上の声で叫んだ。 
「分かってる!けどな、これ以上は無理なんだ!!」 
上田は体力精神力ともに使い果たし憔悴しきった様子の後藤を気遣ったのだ。

彼は悔しそうに拳を握り締め、二人が吸い込まれて行った暗闇を凝視する。 
あの二人の能力からしても自力で助かるはずが無い。 
地面に座り込んで肩で息をしている後藤の表情は俯いていて分からない。 
だが彼の心の中は筆舌に尽くしがたいほどに混乱しているだろう。 
「…もう、やれることは、全てやったんだ」 
後藤の方に手を掛けて「お前は悪くない」と彼に言い聞かせるように上田が呟く。 
残酷な現実を叩きつけられ、皆茫然自失で立ち尽くしていた。 

突然グンと落下スピードが上がり地面との距離が見る見るうちに縮んでいく。 
「…これ、ちょっとやばい状況かな?!」 
擦れ違う風の音も大きくなりお互いの声が聞き取り辛くなる。小木は大声で矢作に言った。 
「悪ぃな…小木。俺の所為だ」 
風の音にかき消されそうな声で、矢作は小木への謝罪の言葉を呟く。 
「まだ、まだ生きている!諦めちゃ駄目だ!!」 
小木は諦めて目を伏せる相方の肩を掴んで力強く叫んだ。 
「でももう…」 
矢作の言葉はそこで途切れた。小木の言葉もそれ以上は聞こえてこなかった。