犬の心編[4]鼻腔


817 名前: 鼻腔 ◆A4vkhzVPCM   Mail: sage 投稿日: 08/01/22(火) 21:15:55 

なんだ。
五明の言うとおりじゃないか。
気恥ずかしい思いもするけど、
俺にはきちんと相方がいるんじゃないか。
一人しかいないけど、
こんな鬱陶しい道連れは一人だけでも多すぎるくらいだ。

「そういえばさっき、大と五明と喋ってさあ。あいつら白なんだよな」
「なー。偉いよなー」
「確かにな。俺には出来ないや。面倒だし」
「でも、出来る事なら俺だって白がよかったんだぜ」
「それは駄目。犬の心は無所属で行こうって。
そんな事より、今どこにいるんだよ。もうすぐ出番だぞ」

押見の言うとおり、二人の出演するライブの開場まであと三十分もなかった。
押見としては、現在池谷は移動中なのだと思い込んでいたのだが、
声の大きさから考えれば少なくとも電車内ではあるまい。

「そこどこだ? 駅……にしては静かだな。もしかしてもう劇場前か?」
「……いや、まだ」
「はあ? だとしたら、もしかして家?」
「ねえ、押見さん」
「何だよ」
「まだ、ちゃんと石は持ってる?」

押見の頭に血が昇った。
この男、一体全体何を考えているのか。
こうなったらもう、コンビがどうとか、不安とか寂寥だとかはどうでもよくなる。
押見は早口でまくし立てた。

「そんな事今関係ないだろ。いいから早く来いよ」
「石は持ってるの? それだけ確認させて」
「……鞄の中だよ。心配しなくても、むやみやたらに使ったりしてないから」
「そうかあ」

煮え切らない返事に押見はまた腹を立てた。
自分が置かれている状況を、分かっていないとしか思えない。

「本当になにしてんの。遅刻とか、まずいって」
「……」
「池谷?」

次の瞬間、全方向から響くような轟音と共に部屋の電気がかき消えた。
予想外の出来事に押見が驚くのも構わずに、窓の無い部屋は真っ暗になる。
電話の向こうでは池谷も黙りこくっているしで、
音も光も無い空間、不信と恐怖で押見は縮こまった。

「池谷? ああ、ちょっと聞こえた? 今の音。
よく分かんないけど、停電かな、変な感じ」
「ん?」
「だから、停電だよ、ていでん。ああ、これ、ライブできんのかなあ」
「じゃあ、来れるよね」



「は?」

その時押見が感じたのは、芯からの悪寒だった。
つじつまの合わない池谷の言葉に、底知れない不安を感じた。

「……何言ってるんだよ」
「大事な話があるんだ。ライブが無いんだったら、今から言う場所に来てくれる?」
「……お前、知ってたのかよ」
「……」
「今日この場所この時間に停電が起こるの、前もって知ってたとでも言うのかよ」
「……」

今は言えない、か。
暗闇の中で目をつぶり、押見は深々と呼吸した。
池谷は今、笑ってるのかな。沈んでるのかな。
どちらもありえるから、想像するのはよすことにした。

「分かったよ。行けばいいんだろ。今どこだよ」

何かが動き出している。
待ち望んでいた戦いの予感。それなのに、押見は、ちっとも嬉しくなかった。

都内にある、結構有名なビルの37階を指定された。
そんなところをコンビ間の話し合いに使えるなんて、
知らない間に、池谷も出世したもんだ。
劇場からは黙って抜け出してきたのだが、よかっただろうか。
肩から提げた鞄の中には布にくるんだカルサイトを入れて、
ポケットに突っ込んだ右手の中にはバラ輝石のひんやりとした温度を感じ、
押見は水色に輝く摩天楼を見上げた。
空は薄暮に染まりきり、七割程度が雲に隠されている。
地面を踏みしめるたびに靴底が石畳と打ち合って高い音を立て、
押見の緊張感を際限なくあおった。
溜息が白いもやになる。

ガラス張りのエレベーターでぐんぐん地上から離れていく。
押見は外を見下ろして、軽い眩暈を覚え、側壁に寄りかかった。
池谷と戦いたくなかった。
あんなに平和惚けしておいて、いつもニコニコ笑っておいて、
夢みたいなことばっかり言って、安堵の気持ちをかっさらっておいて。
いきなり何を言い出すのだ。

「話って何だよ……」

池谷が、とても遠くに行ってしまったような気がした。
これから会って話をする池谷は、
自分の知っている池谷とは違うのだ。
一人の人格が連続していないというだけでこれほどまでに恐怖するなんて。
そこから戻ってくるのでも、同じところへ連れて行ってくれるのでも、
どちらでもいいから、今はこの不安をなんとかしてほしかった。


35、36、37。
数字の点滅する間隔が、とてつもなく長く思えた。
静かに扉が開くと、そこには、いつもと同じように愛想良い笑顔を振りまく池谷が立っていた。

「いらっしゃい、押見さん」
「池谷……」
「来てくれて嬉しいよ」
「ライブ、抜け出してきたけど。よかったかな」
「多分大丈夫。そう計らってもらったから」
「計らう……?」

話しながら二人はエレベーターを離れた。
37階は巨大なホールになっていて、そこには二人以外誰もいなかった。
部屋の中心に観葉植物が据えられていて、
全面が窓になった壁からは東京の街並みを一望できる。
その一隅に置いてあった黒色の長椅子に池谷は座って、押見はその近くの柱にもたれた。

「話って、何よ」

音の無い部屋に、押見の水っぽい声が響き渡る。

「率直に言うよ」

池谷は両手を固く組んで大きく前傾すると、両目をしっかり瞑った。

「黒に入ってほしいんだ」

押見は一瞬硬直したが、覚悟を決め、池谷の後頭部を睨むように見据えた。


「聞くぜ」
「……」

二人は動かなかった。池谷は押見の顔を見ることができなかったし、
押見は池谷から目を逸らす事ができなかった。
押見の頭の中にはある種諦めにも似た感情が充満しており、
池谷の口から発せられる言葉の全てを冷静に受け止める準備が完了していた。

「いいよ、遠慮すんなよ。お前が、ノーテンキで平和惚けなこのお前が、
白じゃなくまさか黒に入れっていうんだ。よっぽどの理由があるんだろ。聞きたいさ」

それに加えて--押見の想像力は不足していた。
伝え聞く話から、黒が行うという悪事の噂から、悪という性質を認識するための想像力。
それは必ずしも必要というわけではなく、この場合では、その欠如が押見を落ち着かせるのに一役買った。

「押見さん……」
「いいから。話せよ」
「……無所属じゃやっていけない。そして、白でも」

池谷らしくない消極的な発言に、押見は目を伏せた。



「白のユニットなら、敵対勢力の黒にも手荒な事はしてこない」
「ああ。正義を担ってる負い目があるからな」
「だけど、黒は……」
「……何をされるか分からない、か……」
「これで押見さんの石が弱かったならよかったんだ。
だけど、そうじゃない。そしてそれは黒にばれてる」

それはお前が漏らしたんじゃないのか、と押見は言いたくなったが、
危ういところで言葉を呑み込むことができた。
そんなことを言っても何の解決にもならないし、
二人の間が気まずくなるだけだ。
それに恐らく、その推測は間違っている。押見はそう直感していた。
そして、それ以外にもう一つ、押見には憂鬱な疑問があった。

「池谷……」
「押見さん?」
「それはもしかして、俺のせいで黒に入らないといけないってことなのか?」
「……っ!」
「俺の石は強い。おかしいくらいに強いよ。そして多分、俺にしか使えない。
それだから……俺が居るから、犬の心は黒に入らないといけないって言ってるのか?」
「……違うよ」
「嘘つくなよ」



それでもまだ、押見は冷静でいられた。

「本当の事を教えてくれ。黒に入るならそれからだ」
「だから違うって!」

だが、それも長くなかった。

「嘘はいいよ!」

後手で壁を叩き、声を荒げる。

「おい、池谷、俺達コンビだろ? 気なんて使うなよ。
あのラーメンズとさえ真っ向勝負をしたいなんて言った無鉄砲なお前が、
何の理由もなしに黒に入るわけないだろうが!」
「嘘じゃないんだ!」
「じゃあ何でだよ!」
「そこまでです!」

頭が痛くなるような高い声が、唐突に割り込んできた。
聞こえた方向を振り返った二人は、息を呑んだ。
そこは階段で--出てきたのは遠山、次いで五明、佐藤だった。
よほど急いで駆け上がってきたのか、すっかり息を切らしている。

白のユニットが現れたのだ。


「お二人とも、動かないで。もうしばらくすれば、このビルに僕らの仲間が来ます。
ですから、お二人とも、動かないで下さい」
「遠山。邪魔すんじゃねえ」
「……僕はそうしたいんですがね。白のユニットとしては、どうも」
「石も持ってないくせに、正義人ぶってんじゃねえって言ってんだよ!」

押見は絶叫し、目にも留まらぬ素早さで鞄から石を引っ張り出した。
ちょうど夕日が沈む時間で、鬼気迫る表情の押見に茜色の後光が差す。
構えられた危険な石に、グランジの三人が動けなくなっている隙を利用して、
池谷は周囲を見計らい、押見に小声で話しかけた。

「それじゃ、押見さん。また後で」

その言葉に、押見は慌てて振り返った。
見ると池谷は部屋を離れようとしている。

「でも、池谷、お前」
「大丈夫。押見さん、大丈夫だよ」
「嫌だ、行くな」
「すぐに会えるから」

そう言うと池谷は押見を突き飛ばし、
警戒する遠山らをよそにさっさと逃げ出し、対面のエレベーターで部屋を去った。
どっ、と尻餅をついた押見は三人に取り押さえられながら、
ああ、俺今白に掴まってるんだと悟り、絶望した。