犬の心編[5]網膜


851 名前: 網膜 ◆A4vkhzVPCM   Mail: sage 投稿日: 08/02/02(土) 12:58:28 

「上に行ったぞ!」

佐藤が叫ぶ。
遠山と五明に組み付かれた不便な体勢で押見が振り返ると、
池谷が乗ったエレベーターが上階へ昇っていくのが見えた。
あの馬鹿、どうせなら逃げ道のある方へ行けばいいのに。
心の中で毒づきながら押見は言った。

「人のこと、いつまで押さえてるつもり?」

かなり不機嫌なその言勢を受けて、二人はほとんど反射的に力を緩めた。
押見はそれを押しのけて立ち上がり、片手で膝を軽く払うと、また憎憎しげに言い放つ。

「あのさあ……何してくれた訳? お前らのせいで、池谷、行っちゃったじゃん」
「……大事な話があったんです」
「俺だってそうだけど。それとも、あれか? お前らの言う大事な話ってのは、
俺と池谷の話し合いを割いてまでしなきゃいけないくらいのものだったのか?」

遠山は唇を噛んで、動かなくなった。
かわりに五明が進み出て、押見に話しかけた。

「確かに軽率な行動でした。それについては謝ります」
「……うん」
「最初はそんなつもりはなかったんです。ですが、話がどんどんヒートアップするから……
あのまま放っておいたらお二人が衝突する可能性がありました。
ですから、それだけは避けたくて……」
「停めに入った、ってことか」
「はい。それに、まがりなりにも池谷さんが黒だと聞いたら、
万が一の事態が頭に思い浮かんで」
「……だとしたら、白っていうのは相当のおせっかいなんだな」

852 名前: 網膜 ?A4vkhzVPCM   Mail: sage 投稿日: 08/02/02(土) 12:58:49 

押見が、三人を威嚇するかのように視線を鋭くする。

「衝突? する訳ないじゃん。確かに口調は激しくなってたけどさ。
俺が池谷に石を使うはずないし、池谷が俺に攻撃するだなんて、
なおさら無い話だろ。黒だろうと何だろうと、池谷は池谷なんだから。
お前らが割り込まなけりゃ全部上手くいってたんだよ」
「……すみません」
「がっかりだよ。……白に感化されたせいで、こんなことになったんじゃないのかな」
「へ? それ、どういう意味です?」

そう尋ねたのは佐藤。

「……もうお前らは、俺らの事を『犬の心』として見れない。
これからは俺らを、『黒のユニット』として扱う気だろ?」
「そんな事ないです」
「そうなるんだよ。嫌でもね」
「だとしたら、押見さん……黒に入るんですか」

遠山が急いで発言する。押見はめんどくさそうにそれを見やった。

「違う。まだ、決めてない」
「じゃあ、入るかもしれない、ってことですか」
「……俺、今から池谷と話をする。二人だけで。
黒に入るか、白に入るか。決めてくる」

押見のその言葉を合図にして、橙に輝くフロアを沈黙が包んだ。
一触即発のムードの中で、皆が何を発言すべきか迷っていた。

「……なんだよ。まあ、そりゃあ、困るよな。
お前ら、きっと、俺が黒に入るよう、池谷に無理矢理説得されるんじゃないかと心配してるんだろ?
大丈夫だよ。いくら相方とはいえ、その辺のけじめはつける。
自分の意志で決める。言いくるめられたりしないさ」
「でも……」
「話が終わったら、絶対にここに戻ってくる。
どんな結果になっても、逃げたり騙したりはしない。約束する」
「……分かりました。では、僕らはここで待ってます。
その代わり、僕の石を返して貰えますか?」

遠山が一歩前に進み出た。
押見は間合いを取るように数歩引き、空笑いしながら返答する。

「石を置いていけ……か。悪い、それは、無理だ」
「……」

押見はズボンのポケットから、美しい赤色に輝く遠山の石を取り出した。
夕日に照らされ幾重にも光を反射させる。

「黒も、白も、まだ俺にはよく分からない。それには池谷の話を聞かなくちゃだめだ。
黒は悪くないと思ったら池谷に、白のほうがいいと思ったらお前に返す。
この石は、信用できる方に渡す」



緊張が辺りを漂った。押見はそれを振り払うように振向くと、
エレベーターに向かって歩いていく。
右手には自分の石を、左手には遠山の石を持っていた。
グランジの三人は硬直していた。
開いた扉の中に押見が吸い込まれる。
引き寄せられて、遠山が駆け寄った。

「あ……押見さん。最後に一ついいですか」
「うん。何?」
「……白のユニットの人間による調査で、
このビルが今夜黒の会合に使われる、という情報があがってきたんです。
ですから、もうしばらくしたら僕らの仲間がこの辺りに来ます。ごく何人かですけど」
「……それで?」
「いい返事を期待してます」
「俺もそうなる事を願うよ」

それじゃあね、と押見が言い残し、ガラスの扉が音も立てず閉まった。
独りになった瞬間、そうか、逃げ道はどこにもないのかと情けないような気持ちになる。
エレベーターは最上階へ昇っていく。


広々とした屋上フロアには透明な柵が張り巡らされていて、
それを通して街の全てが見渡せるようになっていた。
出てきたのはいいものの、池谷の姿がない。
押見は臆病になって不安げに辺りを見回した。
すると、背後から、

「わっ!」

肩をすくませて押見が振り返ると、そこには、
見慣れた顔でニコニコ笑う池谷がいた。
押見は呆れたように頭を掻いたが、口元は微笑んでいる。

「子どもっぽい事するなよ」
「ごめんごめん」
「急ごう、時間が無い。下の階でグランジが待ってるんだ」
「……うん」
「話が聞きたい。黒って何なのか。お前がそこで何をしてきたのか」

話しながら二人はゆっくりと歩いていく。
お互いを追い越しあったり、時に並んだりしながら。
その歩みはやがて、屋上の縁まで来て、そこで止まった。

「二週間前……俺のところに、遠山が仕掛けてきた事があっただろ?」

押見が溜息混じりに尋ねる。

「あったねえ」
「あれ……ってさ。もしかして、お前? けしかけてきたの」

どこからか、金属が打ち合うような高い音が聞こえてきた。
その音が二人の静寂を増長させる。

「そうだよ」
「--どうしてそんな事したの? それも--黒のため?」
「それは--違う。あの時は、遠山が、押見さんから石を取り上げてくれると思ったんだ」
「--よく分かんないけど」

池谷が深く息を吸い込み、押見の顔をきっと見据える。
低い響きを持った声で話し出した。

「黒のユニットは、人の心を操る事ができる。石の力でもあるし--それ以外にも方法がある。
押見さんの石は、強い割に制御が利かないでしょう?」
「……」
「もし黒が押見さんを使うのなら、押見さんを人形みたいに洗脳するのが
一番手っ取り早い。実際、そうするところまで行きかけたんだ。黒は強い力を集めてるから。
押見さんとその石を手に入れるために、作戦が立てられた」
「……そうか」
「俺、その時思ったんだ。押見さんの石が白に流れれば、手の出しようがないんじゃないかって。
だから、押見さんの事を一番心配してる遠山に、押見さんの石が危ないって漏らして、
ああなるように仕向けたんだ。でも上手く行かなかった」
「それで、お前……それならなおさらどうして、俺が黒に入らないといけないんだよ。
ますます危険なんじゃないか? それ」
「今押見さんが黒に入ったら! ……俺の手引きで、黒に入ったら。
少なくとも、押見さんの身に危険な事が起きないかどうか、
俺が見張っておく事ができる」


押見はうつむいた。指の爪で太ももを引っかき、感情をこらえる。

「やっぱり……嘘だな」
「どういう事?」
「お前が黒に入ったのは、やっぱり俺のせいなんだろ? そう訊いてんだよ。
力ずくなんてお前の柄じゃない。それでも黒に従ってんのは、
そうでもしないと知らない間に、俺が黒に操られるから。
相方が使い物にならなくなるから。そうなんだろ?」
「……違うよ」
「……っ! じゃあ何なんだよ!
俺のせいじゃなかったら、どうしてこんな……」
「俺が弱いから」

池谷は呟くように、その言葉を吐き出した。

「……弱い?」
「そうだよ。俺が弱いから。俺の石が戦いに使えなくて、
押見さんの事を守る事ができないから、俺は黒に入ったんだ」
「池谷?」
「いくら黒が何でもするとはいえ、身内には手を出してこない。
俺が自分たちを守るためにできることといったら、それくらいしかなかったんだ」
「……ごめんな」

押見は柵に身を投げ出した。

「ごめんな、今まで、無理させて。なあ……俺たち、これからどうしたらいいと思う?」
「……難しいね」
「俺、一つ知ってるぜ」
「え?」
「白に入ろう。二人で、一緒に」


池谷は目を見開き、驚いたように押見の顔を見た。
押見は不敵に笑うと、池谷に向かって何かを投げつける。
とっさに池谷が手を伸ばす。

「ナイスキャッチ」
「何これ?」
「それで、お前も戦えるよ」

池谷が恐る恐る手を開くと、そこには、鮮やかな光を放つバラ輝石が収まっていた。

「勘違いするなよ。白に入って戦うんじゃない。
白には俺たちの事を守ってもらうんだよ。
あいつら、来るものは拒まずだからな」
「押見さん……それでいいの?」
「……お前が俺の事守る気なら、俺だってそれなりの事をしないと。
お前のしたくない事をさせなきゃいいんだろ」

そう言って、押見は自分の石を握り締めた。

「逃げよう。黒から」

きっと大変だけど。上手く行く保証なんて、どこにも無い。

「結局、長いものには巻かれなくちゃやっていけないんだよなあ」

池谷が笑いながら、諦めに溢れたぼやきで場を茶化した。
それを見て押見も笑う。
太陽が沈み、気温が下がり始めていた。