いつここ編2

527 ◆2dC8hbcvNA sage 2005/06/05(日) 21:56:03
こんにちは。
「ラーメンズ編」の後日 いつもここから山田編 流血シーンあり
「いつここ編」と「ラーメンズ編」、今回の話と以降を合わせて一作品とさせてください。 次から投下します。

528  ◆2dC8hbcvNA sage 2005/06/05(日) 21:57:28 

 遠慮がちな鎌鼬が壁を抉り、拡散した風が街の方向へ混ざった。ある程度人目があるはずの道で 
あるにも関わらず誰も来ないのは、おそらくそういった能力を持った相手がいるか、誰かが見張り 
を立てているのだろう。作り出している風を塊にしていた山田は、ある程度辺りを観察してから状 
況を理解する。 
 人数は見張りを除いて五人程度であろうか。最近は何故か追手の数が増えている気がする。 
 能力は不明だが余り多用は出来ないらしく、いきなり吹き飛ばされて首を締められるわけではな 
い。最初の一人に襲われたときは、これからの関わりを絶つ意味で思い知らせてやろうとしていた 
が、流石に多勢に無勢すぎた。完全に人がおらず、かつ長い距離がある場所を探している最中であ 
る。 
 ぼんやり辺りを見渡していたら追手の一人が向かってきていた。手にはしっかり何かが握られて 
いる。物の正体は問わずとも分かる、使わせる前に風を当てて尻餅を付かせ、空いた間を最大限に 
使って接近、申しわけなく思いながらも低くなった頭の側面に蹴りを入れた。空手の試合のように 
寸止めではない、手加減はしたが容赦ない攻撃で追手の一人が意識を飛ばす。衝撃で零れた石はど 
す黒く変色していたが拾い上げはしなかった。浄化するほどお人よしではない。 
 くだらない。 
 音で存在がばれてしまったらしい。荒々しいが空虚な足音が迫ってきていた。追手とは別方向に 
ある角を曲がったつもりだったが、休憩していたらしい他の追手に見つかり、また身を翻す。いち 
いち逃げるのも面倒だ、急に立ち止まって振り返り、向かってくる相手に対して構えた。やはり石 
に頼っているらしく、握りこぶしが強く作られている。
 元からある力にこだわった。風力で加速はするものの、殆どは肉弾戦で終わらせる。仮にそれで 
怪我をしたとしても後悔は無い。むしろ当然のこととして捉えている山田が、やはりいつものよう 
に加速して顎もとを殴れば、鈍い音と共に倒れる相手の姿が残る。痛む拳を数回振ってからまた走 
り出し、細いが長く続いている道をようやく発見する。 
 軽く跳んで道の一番端まで移動した。振り向いて助走を取ろうとすると、ちょうど向こう側に残 
りの追手が見える。構わずに背中を風に押して走り、誤解して待ちかまえる追手に対して苦笑した。 
十分な速度になってから軽く跳び、冷たい空気の中を飛ぶ。 
 相手がたくさんいる場合は逃走が得策だった。本来ならばあまり手を出さないまま終わろうとし 
ていたのだが、そこまで穏やかにはなれない。ちょっとした感情で相手を傷つけたことを反省し、 
手ごろなビルの屋上で立つ。髪は酷く乱れ、体力を消耗したおかげで息が切れていた。 
 ようやく落ち着いた空気を胸いっぱいに吸い込む。態度では落ち着いていたが、頭の中は慢性的 
な混乱で満たされていた。自分を包む空気が音を立てて崩れているのを感じる。その中には風の音 
も含まれているのだろうか。 
 決して作られていない自然な風に煽られて街を見下ろした。風に乗った山田を見ても驚かなかっ 
た追手は現実がどうでもよくなるほど囚われてしまっていたのだろう。あれも石の力か、余り見せ 
ない怒りを浮かべて眉を寄せる。 
 大きなため息も風に溶かした。他に溶けているのは甘んじて追手になり下がった芸人への淡い感 
想や、始まってしまった非日常の扉である。子供時代に仏様と呼ばれていた山田でも、度重なる事 
件には腹が立ってしまう。すべてを溶かすために吐き出した息を見送った。遠くにある時計台が時 
間を知らせている。

 助走をつけて風に乗った。午後から仕事があるため、早い段階でネタ合わせを終わらせたかった 
のだ。菊地との待ち合わせ時間は八時。すでに過ぎてしまっていて、だからこそ空の道を選んだ。 
本来は普段通りに過ごしたい。 
 風に流れながら先ほどの争いを思い起こすが、何故か相方の姿が頭に浮かんだ。重ねた追手の顔 
と菊地の顔色が似ている気がしたが、気のせいだと頭を振る。その所作で体のバランスが崩れたが、 
何とか持ち直して空を進んだ。高さを違えてすれ違う名も知らないロマンチストが空を見上げない 
ことを祈る。祈りはまた思考に変わっていく。 
 誰に聞かずとも分かっていた。最近菊地がおかしい。普段からおかしいと言われればそれまでだ 
が、たまに浮かべる目つきは時効を待つ犯罪者に似ていたし、見つめられた相手は酷く怯えていた。 
何かきっかけがあったのだろうか、拍車が掛かって異様さは倍増している。 
 アメリカザリガニと争ってから酷くなった。違う、あの後はしばらく暗い表情が続いた。何か他 
にきっかけがあったのかもしれない。話してもらえない山田は除外されているような圧迫感を持つ。 
 人がいない路地で着地して辺りを見渡した。予想した通り誰もいない。慣れてしまった確認を終 
えてポケットに手を入れれば、こちらも慣れてしまった感触が手に残る。無視して歩き始めても足 
どりは重く、また深いため息をついて立ち止まった。 
「同じ人ですか?」 
 最低限の礼儀である敬語を使っているが口調は穏やかではない。促されて出てきた相手はまた知 
らない顔。しかし先ほどの追手とは違い、どこか怯えた表情を山田に向けている。操られている人 
が見せる最大の特徴である無気力さとは程遠い、真剣な様子だった。 
「何も言わずに付いてきてください」

 突然の要望にはもちろん答えられない。小動物のように震えた手にはナイフが握られていたが、 
山田にとっては恐れるものではない。塊にした風を当てればコンクリートとナイフが小粋な音を立 
てた。静かな裏道に高く響く。 
 頼るべき武器を失った相手は青を通り越した顔色で口を結んだ。しかし逃げる気配はなく、逆に 
強い意志を滲ませている。やはり先ほどの追手とは違う。 
「お願いですから、付いてきてください」 
 内容が無い要望が続いた。流石に違和感を持った山田は、風の流れを捉えながらも話を聞く体勢 
を作る。取り出した携帯電話で遅刻のお詫びを送り、閉じた後に顔を上げた。 
「理由は?」 
 急に態度を変えた山田に驚いたのだろう、相手が小さく目を見開く。安堵のようなため息が流れ 
たのは気のせいではないはずだ。だが同時に哀れみのようなものが浮かんだことを見逃せるはずは 
無かった。同情されるような行動をしたか思い起こすが心当たりは無い。 
 ここで山田が知らされたのは真実だった。信じていると口に出した後に訪れた現実への扉だった。 
話を聞いていた山田が無表情だったのは失望したからではない。胸の辺りで広がる刺されたような 
痛みに耐えるだけで精一杯だったからだ。だからこそ、急に態度を変えて叫ぶ寸前まで行ったのも 
当然で。 
 信じたくは無い。 
 事実は得てして簡単なものである。大きな出来事だけで知らされることではない。日常から零れ 
て知らされる方が多いのは、誰だって心得ているはずだろう。しかし、山田は少しだけ普通ではな 
い行動に出た。目の前に広がった扉をすぐには開かなかった。

「断る」 
 すべての事情を話し終えた相手が再度願った同行の願いを一言で断ったのだ。失望を浮かべた相 
手には無表情で返した。すれ違う寸前に呟いた言葉は、自身の胸を抉る。 
「俺が終わらせる」 
 山田の背中を見た相手は何を思っていたのだろうか。言葉では形容しがたい感情を引き連れて、 
決して早歩きにはならずに進む姿は他に似るものが無かった。辺りの気配を捉えずに歩く。 
 立ち止まった。知らされた真実に対しては半信半疑に捉えていた。傍観が多い山田が確かめるた 
めに浮かべた、あまり正統的とは言えない手段を実行するために、いまだ立ち尽くす相手の元に戻 
った。相手は少し顔を明るくしていたが、山田の提案を聞いて再び青ざめる。 
「嫌です」 
 続く震えた声に対しての、返答に似た疑問を容赦無くぶつけてしまう。 
「何でですか? ただ確かめようとしてるだけですよ?」 
「どんなことになるか分からない」 
「なる前に俺がなんとかします」 
「ならなかったらどうするんですか!」 
 話を聞かされていた山田は、相手がここまで怯える理由が十分に理解できた。だが戯れで少し首 
を傾げてから、態度に適わない強攻手段に出る。鋭くなった風で横にある壁を抉れば相手が目を見 
開いた。 
「協力してくれますか?」 
 あまり感情のこもっていない声で尋ねる。目に涙を浮かべた相手は、抉れた壁の欠片が落ちる位 
の間を空けてから、これ以上無いくらいの震えた声で呟いた。

「やっぱりあなたもあの人と変わらないじゃないですか」 
 分からないふりで聞き流す。 
 片付けた携帯電話を取り出して、相方の電話番号を表示させた。震えた手で同じ番号を押す元追 
手、現協力者を一瞥してから辺りを見渡す。ここならある程度暴れても大丈夫だろう、都会だが幸 
い人はいない。アメリカザリガニと争った場所に似ていた。 
「菊地さんですよね」 
「番号は教えてもらいました」 
「誰に、って」 
 電話を耳に押しつけながら山田に目を合わせてくる。ここで山田の名前を出せば正当な結果を得 
られない。名前は伏せさせることにした。 
「言えません」 
 まくし立てる聞き慣れた声がした。内容は聞き取れなかったが、あの独特なイントネーションと 
早口が嫌でも伝わってくる。唯一違ったのは、普段よりも音の温度が低いことだけだ。 
「今から出てこれませんか」 
 呼び出す口実が見付からないようだったから、山田自身が小声で助言した。 
「来なかったら俺にばらすって言えば、多分来ますよ」 
「……山田さんに、黒だってことばらしますよ」 
 電話の向こうで絶句していれば真実だ。空白も聞かなかったことにした。 
 終えた電子的な会話を簡単に説明される。やはり、今からここに来るそうだ。決定的か、ぎりぎ 
りまでは否定していたかった。

 協力者が何か言い足そうとしていたが、何故か戸惑っているらしい。変に隠された方が気になる、 
さりげなく体を向けて話を聞く体勢に入れば、遠慮がちに口を開いてきた。 
「残酷なことするんですね」 
 山田に取っては心外以外の何物でもない。はっきり言われたことで自覚したが中止は不可能だっ 
た。行先がない罪悪感に頭を掻き、これからやってくるだろう後悔に身構える。 
 八つ当たりで協力者を少しだけ睨んでから、地上から目が届かない空へ向かい、ある程度会話が 
聞こえそうな場所に座って背を持たれた。どこかへ続く非常階段の一角である。 
 一応携帯電話を眺めれば、やはり見慣れた名前が表示された。待ち合わせに遅れるだそうだ。 
 下手な嘘。 
 数分経って足音が届いた。軽い、女性のような足音。あり得ないくらいに細い体だからこそ作ら 
れる音。 
「何の用ですか?」 
 届いた声を聞き逃すはずはない。99%が100%になった瞬間だった。押さえていた感情が吹 
き出して、穏やかなはずの目に浮かぶ。昂りに合わせて作られた風は、地上を優しく撫でるそよ風 
に変わった。姿は確認できないから分からないが、おそらく地上の二人の髪を穏やかに揺らしてい 
るのだろう。 
「何の用って言われると困るんですけど」 
 もともと目的は無い上に恐怖の対象が目の前にいるのだ。協力者の声は震え、ろくな会話が出来 
そうにない。流石に疑わしく思ったのか、高い声が切り出した。 
「あんな脅しをしてまで用事がないって、どういうことですか。挑発してるんですね、分かりまし 
た。その喧嘩買いますよ」

 音量が小さいはずの水の音がはっきり聞こえてくる。同時にそれは引き金になった。今までだま 
されていたことになる。アメリカザリガニの言い分が正しかったわけだ。あの時出した汚れていな 
い石は、能力で準備していたものだったのだろう。小さく仮定はしていたが真実だとは思わなかっ 
た。 
 許せるはずは無い。黒にいたことではない、山田を騙していたことが。価値観が似ていて気が合 
う、それ以上に相方として信頼していた相手に裏切られて、許せる人間は至極少ないはずだ。もし 
許容したとしてもそれはただ諦めているだけで本当に許しているわけではない。騙されたことを受 
け入れている人がいたら見てみたいくらいだ。 
 謝らせる。あわよくば、あまり利点があるとは言えない黒から抜けさせる。そして、今までして 
きたことを全て知って、責任を取る。してきた行動に対する償いはさせるつもりだった。 
 協力者は何とか逃げ回っているらしい。水が弾ける音はするが人が倒れる重い音はない。山田自 
身がよく分かっていない感情を持ちながら立ち上がった。地上を見下げて至極楽しそうに目を光ら 
せた相方を見る。大きく息を吸う。 
「菊地」 
 張り上げずとも聞こえるはずだった。証拠に、菊地は空を見上げて目を見開いている。逆に見下 
げる山田は少し跳んで、後は風に乗って地面に着地した。驚いた協力者に軽い礼を言って帰らせよ 
うとするが、腰が抜けてしまっているらしく地面にへたり込んだままだ。そんなくだらないことは 
放って展開は進む。 
「何で」

 言葉が見付からないらしい。先ほどまでの饒舌さは消え去っていた。今にも泣き出しそうな大人 
を前にした山田は、怒りを発見できない淡々とした口調で答える。はっきりした怒りに似た感情は 
何故か消えていた。 
「その人に聞いた」 
 菊地が協力者を睨み付ける。今にも水鉄砲を投げそうだったので風を吹かせることで止めた。実 
際攻撃しようとしていたらしい、罰が悪そうにしている。山田はやはり淡々と続けた。 
「相方がやられたからやり返したいんだってさ」 
「俺が先に襲われたから」 
「嘘付くなよ。ここに来た理由、覚えてるだろ?」 
 山田に黒だってことをばらす。それを恐れてやって来たはずの菊地が息を飲む。否定しない菊地 
を見た山田が一陣のため息を漏らす。 
「俺はお前を許さない」 
 菊地は絶望に塗りつぶされているようだった。だがそれはすぐに怒りに変わり、何か小声で呟い 
ている。追い詰められているらしい、この先に待っている悲しい展開を危惧した山田は風の流れを 
読んだ。説得の時間は自然には作られないだろう。菊地が手にしているペットボトルの水を飲み干 
す。 
 囚われているわけではなさそうだった。だが何かに支配はされている、そんな目つき。菊地の真 
意を読むことに集中していた山田に向かって一筋の水が飛んできた。とっさに風を作るが髪を掠る。

 まさか相方と争うとは。今まで同じ状況に陥った人はいるのだろうか。いるなら是非心境を聞い 
てみたい。ちなみに山田自身の心境はこうだ。 
 虚しい。 
 何本か一緒に飛んでくる水の線は全て風で横に逸らした。どさくさに紛れて協力者のほうにも線 
が飛んでいたので、風を強くしてまた軌道を逸らす。水が当たった壁は抉れていた、見境も躊躇い 
も既に無くなっているようだ。菊地の戦い方は当然心得ていたがそれは菊地も同じで、知り尽くし 
た手の内の透き間を探しながら争いは続く。 
 お互いに戦い方が上手くなってしまっていた。山田が風に体を乗せて肉弾戦を誘えば、数歩引い 
た菊地が威嚇のため水を投げてくる。菊地が距離を取って遠距離戦を狙えば、風で加速した山田が 
急に距離を詰める。握りこぶしはクッションになった水の壁によって威力を吸収されて、無数の細 
かい水の針は風によって吹き飛ばされる。 
 菊地が高熱を出して倒れれば一番いいかもしれないと思った。しかしこの後に芸人としての仕事 
が待っている。ネタ合わせもまだ出来ていない、こんなくだらない戦いで時間を使っている時間は 
無い。 
 立っていられない位の強い風を作れば菊地の体が吹き飛ぶ。風の所作で山田自身の頬が切れて血 
が流れた。どうせ後から治せる、拭いもせずに風で背中を押し、壁に凭れかかる菊地の目の前に立 
つ。目線を会わせて相手の首を掴めば、ようやく待ちわびた説得の時間がやって来た。菊地は目を 
見開く。山田はやはり変わらない態度を続ける。

「何してたか聞いた」 
「誰に」 
「さっきの人に」 
 腰を抜かしていた協力者は消えていた。風に巻き込まれていないことを願う。 
「体の中に水流して、内側で凍らせたらしいな」 
 菊地は変わらずに無言である。確かめるようにして山田が続ける。 
「胸から氷が飛び出てたって言ってた」 
「治せなかったら、そんなことしない」 
「治せたとしてもその人は立ち直らない」 
「治した」 
「そんなことされて忘れられると思うのか?」 
 いまだトラウマから抜け出せずにいるらしい。日常生活にも支障が出ているそうだ。そのような 
人が何人もいるのかもしれない。いや、実際にいるはずだ。まさに石に魅せられた典型的な例だろ 
う。急に手に入れた力の誇張は誰だって経験がある。 
 首を掴んでいる山田の腕を菊地が握り返した。突然襲った激痛に顔を歪めた山田が首から手を離 
す。掴まれた手首をなぞって血が流れていた。掌から何か針状のものでも作り上げたのだろう。と 
っさに山田が自らの風で傷を治す。 
「ほら、治せるじゃん」 
 一部始終を見ていた菊地が少し笑った。あまり見たことがない笑い方だった。 
 そこでやっと山田は一つの可能性に気づく。菊地が全てが操られているわけではなく、なんらか 
の影響で残酷さが肥大しているだけではないか。

 なら次の行動は予想できる。危惧した山田が一歩、体を引いたが少し遅かった。菊地が放った水 
が山田の脇腹に突き刺さり、そこから血が流れていく。当然すぐに治してしまうので痛みは一瞬だ 
が、記憶には残る。 
 山田の予想は確信に変わった。今までの生活を諦めた菊地は、力で山田をつなぎ止めようとして 
いる。 
 菊地が立ち上がり、氷の刃を山田に突き刺そうとする。すんでのところで避けた山田は風に乗っ 
て長めの距離を後ずさるが、それより早く飛んできた水の線によって頬に傷が出来た。既に風によ 
って出来ていた傷が更に抉られた形になる。溢れる血は流石に拭ったが治すほどの暇はなく、菊地 
が持つ長くて細い、伸縮可能な水の線を避けることしか出来なかった。 
 頬は疼いたままだ。そこから熱が伝わって山田自身の感情を煽る。ポケットに入った石も熱をお 
びている気がしていた。 
 山田は今まで、全力で石を使ったことがない。そこまでの事態にならなかったこともあるし、頼 
りたくなかった。しかし相方としての欲目を無しにして、今までで一番厄介な相手を目の前にして、 
自らだけの力では足りなくなっているのも事実である。ポケットに入った石を強く握った。菊地の 
水は山田の肩を貫通する。 
 今まで出したことがない感情を表に出して、全ての力を石に込めた。風が音でさえ奪い去り、菊 
地の元に向かった。逃げた風が空へ向かえば葉やゴミは道連れに、妙に綺麗な道の向こうで存在し 
ていたのは腹部から大量の血を流して跪く菊地の姿である。一瞬にして事情を悟った山田が後悔の 
波に襲われながら菊地に駆け寄るが、自らの体にも無数の切り傷が出来ていることに気づき、痛み 
を感じて一気に減速した。いよいよ途中でへたり込み、遠距離で菊地の傷を癒す。

 めちゃくちゃな戦いであることは本人達が一番悟っていた。傷を作っては治しをくり返せば、終 
わりがなくなるのは誰にでも分かることだ。だが今回、山田は自らの傷を治さなかった。大きな力 
を使ったせいで力が尽き掛けていたし、もう終わらせたかったからでもある。敗北の二文字に甘ん 
じたのだ。 
 仰向けのまま空を見上げる山田が顔を横に向けた。傷が無くなっているにも関わらず菊地はしき 
りに腹部を摩っていた。痛みに怯えたのか、今まで他人に味わわせていた痛みの重さに溺れたのか、 
先ほどまで浮かべていた笑みは消え去っている。少し経ってからようやく山田の傷に気づき、泣き 
そうな顔をして水で治療してくれた。後悔先に立たず、という言葉がしっくりくる。 
「すいませんでした」 
 どこか滑稽にも思える謝罪が山田の耳に届いた。返事する気力を失っていた山田が頷くだけで返 
すが、言わなければならないことがあったので力を振り絞った。仰向けになったまま口を開く。 
「何で嘘ついてたんだよ」 
 菊地は無言のまま口を開かなかった。どこか山田に対する恐怖を浮かべていたし、口にするため 
の言葉を浮かべる作業で既に躓いてしまっているらしい。 
「そんだけ痛い思いしたんだから、反省したろ」 
 山田が問いかければ菊地が腹部を摩る。顔が明らかに歪んでいた、切れた服にはまだ新しい血液 
が付着している。 
「結局どうしたいの?」 
 ようやく菊地が口を開いたが少し怒りが混ざっていた。それは言葉を並べるにつれて大きくなる。 
「許さないっていうなら離れればいいだろ、白に入って俺を倒せばいいじゃん。傷治さないままに 
しとけば終わってたかもしんないし、こうなるなら放っといてくれればよかったのに」

 相変わらずの自分勝手な意見に笑いそうになる。山田自身よく分かっていなかったので少し考え 
込んでしまった。その間に体を起こし、座ったまま辺りを見渡す。不幸中の幸いだ、奇跡的に人は 
訪れなかったらしい。 
 何とかまとまった文章を頭で反芻した。実感するほど自分勝手な意見だった。 
「出来るならお前を黒から抜けさせたい」 
「白になれってこと?」 
「違う、もうたくさんだ。どっちにも入らない」 
「中立……」 
「まあ、無理だろうけど」 
 何となくだが菊地が黒を抜けることは不可能な気がしていた。激痛を体験した後でも行動をくり 
返すだろう。ここで反省して終わるようなら、アメリカザリガニと争ったときにすべてが解決して 
いたはずだ。 
 山田は一つの計画を立てていた。少しだけ菊地を騙す計画だが、一番上手く行く方法のはずだっ 
た。 
「俺はお前が何かする前に止めに行く」 
「は?」 
「お前が誰かを襲った時だけ敵になる」 
 菊地が絶句する。もし立場が逆だったら山田も同じ反応をしていただろう。これは方法の一つだ、 
他にもするべきことは多い。

 黒に上司のようなものがいるとすれば、おそらくその上司が菊地の残忍性を肥大させているはず 
だ。それをやめさせるために一人で行動する。もちろん菊地には気づかれないよう細心の注意を払 
って。 
 相方の暴走は止めればいい。これはコンビを守るための戦いである。白も黒もどうでもいい、と 
にかく普段通りの生活を取り戻させてくれれば。普段から傍観者でいることが多い山田ならではの 
結論である。 
 絶句したままの菊地を放って立ち上がり、しゃがみ込んだままでいる相手を見下ろした。手を取 
って立ち上がらせ、待ち合わせ場所だった事務所へ向かうため歩き出す。なかなか歩き出さない菊 
地を待つため立ち止まり振り向けば、誰かに対しての怒りを浮かべていた。 
 もう一つ分かっていることがある。菊地が上司に怒りの類を抱いていれば。現状況の八つ当たり 
のために上司の元へ向かうだろう。菊地の暴走を止めることは平行して、上司を探る手掛かりにも 
なる。嫌な言い方をすれば、えさとして使うということだ。 
 趣味が悪い計画に反吐が出そうになった。普段から穏やかでいるからこそ出てきた冷静な計画だ 
ったが、胸に留まったままの蟠りは消せるはずが無かった。しかし山田はそれを手にする。逃げた 
協力者に初めて真実を聞かされた時からある反省が疼く。 
 形がどうなっているにしろ、菊地に全てを背負わせていた。 
 だから今度は山田が全てを背負う。 
 突っかかりは無視して出来るだけ今までと同じ生活を心がけよう。これが思い上がりでないのな 
らば、菊地は一番に山田と離れることを恐れていたはずだ。山田も同じ恐怖を持っていたから分か 
る。だからお互いに条件付きで恐怖の原因を一掃し、最終的には本当に元通りにする。今の条件は 
こうだ、菊地は山田と戦うこと、山田は嘘を突き通すこと。
刺された
 裏通りの入口に工事中の札が掛かっていた。人が来なかった原因はこれらしい。偶然に感謝しな 
がら敵同士並んで歩く。山田がネタの話を振るせいで菊地も普段通りになる。どこかぎこちなかっ 
たが何とかなりそうだ。 
 許さないと言ったが既に許している。あれだけの激痛を感じたなら十分だろうし、それ以前の問 
題だ、許さない対象が違う。許さないふりは続ける。そうすれば罪悪感で行動が狭まるはず。それ 
くらいのハンデは背負わせてもいいだろう? これも菊地についた嘘だった。 
 日常を崩した誰かへ。 

End.