Phantom in August [10]

78 :Phantom in August  ◆ekt663D/rE :2006/08/18(金) 23:13:54

【22:43 新橋・某居酒屋】

個室を隔てるのれんがまくれ上がり、その向こうから渡部達の顔が見えると
テーブルの上に並ぶ料理を退屈げに見張っていた谷井の表情に色が戻る。
「お疲れ〜」
ひらひらと手を振って三人を招き入れ、どーだった? と早速問う谷井に渡部は曖昧な表情を返した。
「…もしかして、間に合わなかったのか?」
「いや、その逆。」
シアターDに運び込まれた『白い悪意』の被害者の手当てに向かう…その目的を考えれば、
この個室を出て行った時よりも3人がそれぞれ疲弊して戻ってくるのは当たり前かも知れない。
しかし、それにしては重い空気を漂わせている彼らに谷井が問えば、児嶋が首を横に振って答える。
「予想以上の収穫だったよ。」
「へぇー。」
そうは見えなかったと素直に谷井が感想を述べれば、「だろうな。」と児嶋は応じ、
さきほどまで腰掛けていた椅子にドサリと座り込んだ。

「まさか、あの人が『白い悪意』の正体だったとは…ね。」
同じく椅子に腰掛けるなり、早くも携帯のアプリにエラーでも生じたのかゲームがプレイできない事に
彼の石の能力の副作用とはいえ、毎度ながらうぁああああと呪詛めいた呻き声を上げ、
この世が終わったかのような深い絶望っぷりを見せる今立の様子を横目でチラリと見やり、
ようやく苦笑いめいた表情を口元に浮かべて、渡部は小さく呟く。
「何、ついに正体わかっちゃったの? 」
「あぁ。あいつらは何も言わなかったけど…渡部が見たんだ。そいつの顔を。」
いつもならスゲーじゃん、などと弾む口調になるだろうが、今は重い渡部達のテンションに沿わせるように
愉しげな色の消えた声色で谷井が問えば、児嶋は深く頷いた。
渡部が見た、という言い回しは、相手の心や思考と同調できる彼の石…水晶の能力が行使された故だろう。
何が原因でそうしたのかは谷井にはわからないが…そもそも被害者が誰かすら知らないのだから当然かも知れないが
…被害者達が己の見た『白い悪意』の正体を伏せようとしても、脳裏に過ぎったそのビジョンを渡部は見逃さなかった。
つまりはそういう事なのだろう。

「上田さん達に連絡は?」
「…した。と言っても収録中なのかなかなか出なかったから、携帯の留守電に入れといたけど。
 ついでに他にも何人かに連絡を回しておいたし、明日から…今からもそいつに対して警戒は、できると思う。」
ついさっきまで、どう手を打てばいいのかわからない。そんな状態だったのが、一気に状況が進展したように思え、
谷井の表情に、目に、再び明るい力が浮かぶ。

「けど、本当に大変なのは…これからだよ。彼の力は半端じゃない。」
谷井のそのプラス方向の力に影響されたか、フとようやく明瞭な笑みを浮かべて渡部は谷井に言い、回りを見渡して。
「ま、ちょっと遅くなったけど…コレ食べてしっかり休んで、俺らも明日に備えよう。な?」
相変わらず携帯を握りしめたまま半死半生といった様子の今立を除く2人に、告げた。
そのまま彼は随分結露が付いた上に泡の量が目減りしているビールのジョッキを手に取る。
同じくジョッキを手に取った2人と目線を合せ、渡部達はジョッキを掲げた。

「……乾杯。」




【22:04 渋谷・センター街】

「おっかしいなぁ……。」
床に落ちたスケッチブックを拾い上げて松丘は思わず呟きを漏らした。
確かに平井が指摘したように、手の中のそれは石の力で呼び出した時に比べると縮小してしまっているように見える。
これではどう考えても白いパーカーの男…『白い悪意』の放つ光の帯を防げるとは思えない。
「時間が経つ事に小っちゃくなってくシステムなんやろか。」
疑問の呟きと共に松丘は石に働きかけ、一旦拾い上げたスケッチブックを消す。
そして再び石に意識を集中させ、スケッチブックを呼び出すけれど、
新たに現れたそれも、片手で扱えるほどのさほど大きいサイズとは言えないモノだった。

だとしたら、さっき最初に呼び出したスケッチブックがやたら大きかったのは、火事場の何とやら効果という事なんだろうか。
何とも釈然としないまま、とりあえずそう結論づける事にして。
新たに呼び出したスケッチブックで胸元を扇ごうとしつつふと傍らの平井を見やった松丘は、彼の複雑げな表情に目を留めた。
「…どないしたん?」
「あ、いえ…ね。」
問いかければ、返ってくるのは曖昧な表情と曖昧な言葉。
「何や、思い当たる事があるンやったら言うてよ。」
小さく微笑んで、松丘は告げる。
ついさっき、石が光り出したばかりで。何か記憶の奥底でもやが掛かっている部分があるような気はするけれども、
今のところはこの不思議な力を持つ石について殆ど知識がないのだ。
前々から石を使いこなしていた平井の考えが、何かしらのプラスになるかも知れない。そう思っての言葉だろうけれど。

「……………。」
平井は何かを言いかけ、軽く首を横に振る。
それはまだ平井の思いつきの仮説でしかないけれど。口に出す事で、松丘が自覚する事で真実になってしまう可能性は高い、そう思えてならなくて。
まだ完全に追い払えていない『白い悪意』の事を思うと、無闇に藪をつつくような真似はしない方が良いに決まっているのだろうけども。
「何よ、言うてって。」
いよいよ好奇心を煽られたか先ほどより少しだけ強い口調で告げ、真っ直ぐ見つめてくる松丘に、平井はふぅと息を吐いた。
諦めたように一度床に視線を落とし、松丘の方を向き返して。
「……今、使わないでしょう。スケッチブック。」
短く告げられた平井のその言葉に、松丘の大粒の目がさらに見開かれ、彼の手首で揺れるブレスレットで淡い緑色の石が瞬いた。


そうだ。
あまりに自然に手の中に収まったから違和感を覚えなかったけれど。
『今』の松丘はネタを演る上でスケッチブックを必要としない。
リストバンドといった小物を決して使わない訳ではないが、鼻エンジンに主に必要なのはセンターマイク。
「多分『昔』の力が…持ち主の危険を察知して一時的に発動してるんじゃないかなって。」
だから、石に蓄積されていた力が消費されていけば、スケッチブックも自然と小さくなるだろう…そういう事なのではないか。
平井は続く言葉を紡いで、もう一度ふぅと息を吐いた。
「……………。」
松丘は淡く輝きを発するサーペンティンにちらりと目を向け、そして改めてスケッチブックの表紙をめくる。
『土下座』『あっち向いてホイ』『1UP』。
1ページ毎に何やら単語が書き付けられており、所々に血なのだろうか。黒ずんだ汚れもが付着しているように見えた。
どんな意図があって書かれたモノかはわからないけれど、それは紛れもない松丘の字であったし、
そしてそれは、かつて坂道コロンブスのコントで松丘が指示を出すべくカンペとして掲げていたスケッチブックを彷彿とさせるモノだった。

「前から…戦っていたんですね。」
脇からスケッチブックを覗き込んでいた平井が、ポツリと漏らす声が聞こえる。
確かに平和な時期に、仲間内で楽しむために石を用いていたのなら、ページに血が付着している事などあり得ないだろう。
「………………。」
平井の言葉に同意するでも反論するでもなく、松丘はパラパラとページをたぐっていく。
やがて辿り着いたのは、『テンションを上げて』 『もっとテンションを上げて』 『最高にテンションを上げて』 『石を、暴走させろ』
ひときわ血で汚れているページに歪んだ字で書き付けられたその一連の文言を最後に、スケッチブックは白紙が続くばかりになっていた。

「確かに。」
白紙のページを尚も惰性でめくっていきつつ松丘は小さく呟く。
「これは、『今』の僕やない。」
せやけど、と今度は声に出さずに言葉を続け、松丘はパタリとスケッチブックを閉じた。

――せやけど、だとしたら『今』の僕に…石は『今』の僕に何の力を貸してくれる?

の松丘は、芸人としての経験こそ豊富かもしれないけども、漫才師としては実績もない駆け出しのひよっこである。
もしかしたら、このオマケの力が失せてしまったら、もう石は反応しなくなってしまうかも知れない。
別に石の力が使えなくなっても、ついさっきまで石と関係ない生活を送っていたのだし、特に問題はないだろうけども。
この状況…何とかして『白い悪意』を追い払わなければならないという所で石が使えなくなるという事で
平井への負担が一気に増えてしまうのは、さすがに心苦しく避けたい事態である。

せめて今夜中は何とかならない物だろうか。
どこか縋るように腕をもたげ、松丘はブレスレットのサーペンティンを目線の位置まで持ち上げた。
スケッチブックはもうノートと見紛うぐらいに縮小してしまっているけれど、蛇の図案が彫り込まれた銀のプレートにあしらわれた石は、非常階段の緩い照明の下でもそれとわかるぐらいに光を自ら発している。
…それは大丈夫だという証なのか、それとも。
石に問おうと口を開きかける松丘だったけれど、結局言葉は紡がれなかった。
代わりに彼はもたげた腕を降ろし、ハッとした表情を浮かべて傍らの平井を見上げる。

「たいがぁー……。」
「……ついに来た、みたいですね。」
もちろん松丘が感じたそれは、禍々しい石の気配は平井にも感じ取れたのだろう。
松丘からの問いかけに答えるかのように、ぼそりと平井は口にして。ぎゅっと拳を握りしめた。
「…『白い悪意』っ!」
吐き捨てるかのような平井の言葉とその気迫に呼応するかのように、胸元で揺れるラテン系の民族工芸品めいた首飾りに
組み込まれた彼の石、ダルメシアンジャスパーが雄々しく煌めく。
一瞬だけ平井の石が発動したか、じわっと肌を焼く熱気を頬に感じながら、松丘はゆらりと立ち上がった。
非常階段の踊り場から下を覗けば、白いパーカーを着た男が危うげな足取りで路地を歩き、2人が潜んでいるこの雑居ビルへ
近づいてきているのがぼんやりと見えた。

「…どこかに隠れてても、良いですよ。」
「ンな事、できひん。」
背後から聞こえる平井の提案を、松丘は首を横に振って拒否する。
「そんな事したら、結果はどうあれ後で絶対後悔する。同じ後悔するなら、やって後悔した方が、ずっとエエ。」
再び始まるだろう戦いを思ってか、どこか引きつったような笑みを顔に浮かべながら。
松丘は一度エレベーターの方へ目をやり、それからスケッチブックの白い紙を数枚ほど一気に引きちぎると、
非常階段の上から下へはらりと撒いた。
「……何を?」
「撒き餌、や。」
いきなり何を始めるのだと怪訝げな目を向ける平井に松丘は告げ、再びスケッチブックの紙を千切ると階下へと撒く。
「それより…エレベーター呼んで。まさかここでこのまま追いつめられるつもり、ないやろ?」
サーペンティンの淡い緑色の燐光を纏いながら、紙はゆらゆらと舞い落ちて非常階段に積もっていく。
それに惹かれるように非常階段を上り始めた『白い悪意』の姿に、平井は松丘の意図がうっすらと把握できたか、
こくりと頷いて返したのだった。