ラーメンズ編 2 ※流血シーン注意


431 : ◆2dC8hbcvNA :2005/12/20(火) 15:57:18 

 状況を理解出来るはずはなかったけれど、自らが持っている感情が危惧だということだけは予想 
出来た。恐らく面した人全てが眉を寄せる位、冷たい表情をした相手が憎悪を向けている。受け止 
めた体に心当たりがあるはずもない。 
 コント中で眼球保護膜と称された眼鏡を間を埋めるためだけに掛け直した。後頭部の高い場所で 
結わえた、癖の激しい髪を揺らした。粘土から生まれた戯れの創作物を手にしながら片桐が唾を飲 
み込む。先に起こることは予想せずとも分かる。 
 相方である小林は違う仕事を終えてこちらへ向かっているところだ。お互いが一人だけの仕事を 
こなした後だから、当然楽屋には片桐と相手しか存在しなかった。ともなれば必然的に楽屋は狭く、 
逃げる道も限られてしまう。案の定出口は相手の後ろだ。 
 話し合いで終わる相手では無さそうだが方法はそれしかなかった。片桐は自らの能力が戦いに向 
かないことを知っていたし、相手の能力が戦いのために生まれてきたようなものであることも知っ 
ている。それでも彫りの深い目を軽く光らせて、いつもは大きく開いている口を小さく開いた。 
「何か用ですか?」 
 そもそもの話だ。片桐の今日はろくなものでは無かった。 
 取材の撮影では羽目を外しすぎてカメラを壊す。気分変換に散歩を始めたら黒猫の大家族が横切 
り。それでも興味があるからと手を伸ばしたら、誤解した親猫が死に物狂いで片桐を襲った。ひっ 
かかれて破れた服はお気に入りだったし、とにかくもう嫌なことばかりだった。 
 大雨が振った後に虹が掛かるように、きっといいことがあるはずと前向きに捉えていたのに。ど 
うやら出来事を含んだ雨雲は最後の最後に雷を隠していたらしい。 
 目の前に立ついつもここからの菊地は、雷よりも恐ろしい人に見えるけども。 
 くだらない考え事が許されるほどの時間が流れていた。問いかけたにも関わらず相手が返事をし 
なかったからだ。バナナマンやおぎやはぎのような見知った相手ならよかった。いや、でもそれは 
それで悲しい状況なのか? 
 新たに生まれた考え事に苦悩した片桐は見境なしに頭を抱えた。もちろん目は強く閉じている。 
「小林さんはどこに?」 
 質問を質問で返されたことで解放された片桐は素直に答える。 
「まだ違う仕事です」 
「そうですか」 
 菊地はただ目を伏せ。 
「……そうですか」 
 同じ言葉を噛み締めるようにしてから続ける。 
「山田くんはスタッフと打ち合わせしてます」 
「はあ」 
「お互いの相方が来るまでですね」 
「何が?」 
「用事を終わらせるリミット」 
 相手の右手が動いた。動作だけを感知した片桐は後ろずさるわけでもなく、逆に前に出て自然な 
動作で手を伸ばした。もちろん先には出口へと続くドアがある。 
「俺は仕事です」 
「粘土を放って?」 
「そりゃそうだよね」 
 ばれて当然か。続く言葉を発する前に場面は動いていた。菊地の手から水が零れ落ちたかと思う 
と、水は長くて細い刀のような形状に変わる。後ろに下がった片桐の体が椅子を巻き込み倒してし 
まった。大げさな音から更に逃げるようにして粘土が置いてある机に近づき、盾のように頼って顔 
だけを菊地に向ける。 
「どうして俺なの?」 
 純粋な疑問だった。片桐は白に属してはいないし、黒の邪魔をしているわけでもない。むしろ黙 
認しているのだ、逆に感謝されるべきではないのか。いや、感謝はないにしても。 
 変わらずに暗い目を光らせる菊地は少し間を明けてから答える。 
「八つ当たりかもしれません」 
「俺に八つ当たる理由は?」 
「小林さんの相方だから」 
 片桐が珍しいものを見たように目を見開いた。相方である小林が何をするにもよく考えてから決 
める性格であることは片桐が一番よく知っている。だから黒に入っていようとも、恨みを買わない 
ように上手くやっているはずだった。何か手違いでもあったのだろうか。 
 菊地が薄い目を荒げた。刀の形をしていた水が伸びて真っ直ぐ飛んできた。避ける余裕がない位 
に唐突だったせいで痛みに気づくのが遅れた。 
 よく見れば、腹部から見たことがない量の血が滲んでいる。 
「嘘だろ」 
 いくら黒だと言っても犯罪になるような大けがはさせない。そういっていたのは黒である相方の 
小林だったはずなのに。血が滲んだ腹部を抑えながら冷たい相手を見上げる。一瞬にして悟った。 
菊地は何かが壊れている。 
「それ、俺もやったんです」 
 それというのが何を表しているか分からなかった。額に浮かぶ脂汗の感覚だけが妙にリアルで、 
熱くなってきた腹部を押さえ込むのに精一杯だったからだ。返事が無いことに腹を立てたらしい菊 
地が近づいてくる、手を翳す、激しい息を繰り返していた片桐が目をきつく閉じる。 
 予想していた展開は無かった。脂汗は変わらずに冷たかったが、押さえ込んでいた痛みの種類が 
違っていることに気づく。恐る恐る手を離せば、血で汚れた服が横一線に破れているだけで、傷口 
が無視出来る位に薄くなっていた。 
 黙って相手を見やることしか出来ない片桐に対し、菊地が自嘲的な笑みを浮かべた。それは何か 
の引き金になったようで、すぐに聞かせるような独り言が爆発する。 
「おかしい。俺は許されないのに、何で小林さんは許されたんだ。俺よりも小林さんの方が上にい 
るはずなのに、俺は……」 
 そこから先は聞き取れなかった。聞き取れていても何を話しているかは分からなかったはずだ。 
独り言はだんだん小さくなり、やがて考え事に変わり、部屋は静寂に満たされる。菊地の目が何も 
見ていないのを確認した片桐は机上に置かれていた粘土を手にとり、人生で一番と思われる早さで 
作品を作り上げた。いつもの個性を出した創作物ではなく、その状況から逃げるためだけに作り出 
したものである。 
 黒光りした拳銃だった。銃器マニアではないので所々おかしなところがあるかもしれないが菊地 
にも分からないだろう。ただ目を見開いた片桐が、左手では無意識に腹部を抑えながら、偽造した 
銃を上げて菊地の顔に向ける。 
 考え事の世界から帰ってきた菊地が片桐を見下ろした。銃を向けられているにも関わらず眉一つ 
動かさない。出来るだけ恐怖を隠していた片桐の手が震える。当たり前だ、痛みを体験させられた 
ばかりなのだから。 
「それを小林さんに向けるつもりは?」 
 すっ頓狂な質問をされて戸惑う。そんなことがあるはずもない。睨み付けるだけで答えたら菊地 
が納得したように呟く。 
「それが普通なのかもしれない」 
 そして自分から近づくように頭を下げてくる。銃口は菊地の眉間に近づけば、菊地の目も片桐に 
近づく。 
「それもいいかもしれない」 
 同じような言葉を続けていたが片桐には理解不能だ。急に動いた菊地が偽造した銃を握った。引 
き金を引いても意味がないのに、片桐は人指し指に力を込めた。当然銃だったものは粘土に戻り、 
指の形で歪む。 
 初めて菊地の顔に興味が浮かんだ。作品では無くなってしまった粘土を取り上げて念入りに観察 
している。数秒してから粘土を返された。見下ろしていた菊地が初めて片桐と目線を合わせる。 
「作って欲しいものがあるんですけど」 
 逆らう気力も失せていたし、しっかりと恐怖が植えつけられていたため言われた通りにする。楽 
しそうにそれを眺める菊地から先程まであった殺意に似た危ない気配は消えていた。何かを描いて 
いるからかもしれない。黙って作り続けているのが怖くて、相手を探る理由も込めて質問する。 
「用事って何だったんですか」 
「え?」 
「終わらせなきゃいけないっていう」 
 菊地が水を作り出す前、用事を終わらせるリミットがあると確かに呟いていた。当の本人は忘れ 
てしまったのか、ただ首を傾げるだけに留まっている。答えの無い質問は新たな静寂を作り出し、 
同時に粘土が目的通りのものを作り終わっていた。仕上げをしてから菊地に渡す。 
「すごいですねえ」 
 少なくとも片桐には素直な賞賛に聞こえた。驚いて目線を逸らし、数秒間辺りを見渡す。落ち着 
いた状況になったおかげで逃げ道を探す余裕が出てきた。 
「持っててください」 
 渡したはずのものを返された。受け取るしか無かった片桐が手を伸ばすと、少し重くなった気が 
する。それを使用されなかった粘土の横に置いた。解放されるかもしれないと甘い期待を抱いたが、 
倒れたままだった椅子を立て直す菊地を見て失意がちらつく。 
 どうやら人を待つつもりらしい。それがどちらの相方かは分からなかった。来たところで何が出 
来るかは分からないにしても、片桐が望むのは自らの相方である。最善の来客は何も知らないスタッ 
フだが、ある程度の対策をしなければ楽屋で騒ぎを起こそうなどと思わないはずだ。 
 自分で何かをしなければいけない。けれど、恐怖心は拭いきれそうにも無い。初めて日常が恋し 
くなる。 
 閉められたドアが軽くノックされた。菊地に促された片桐が軽く返事をすれば聞き慣れた声が届 
いてくる。酷く疲れたような響きは最近ついた癖のようだった。無防備な素振りで開いたドアの向 
こう、最初に訪れた表情は驚愕で。 
「何してるの?」 
 辛うじて出したような疑問はやがて怒りに変わった。片桐の腹部で黒くなり始めている血液を凝 
視してから、見たこともないような顔をした小林が菊地を睨み付けている。同時に鞄からノートを 
取り出していた。 
 一連の動作を見ていた片桐は思う。止めろよ賢太郎、多分もう無理だ。口には出さなかった。出 
せなかった、というのが正しいかもしれない。 
「仁に何した?」 
「シナリオはどうなってますか?」 
「答えろ」 
「載ってるでしょう」 
 小林がノートを凝視する。しかし表情は変わらない。 
「くそくらえだ」 
 珍しく直線的な悪態をついた。載っていなかったことは片桐だけが悟っていた。小林のことだ、 
載っていたなら二回も読み返すなんて無駄なことはしない。 
「いつも違うことをする」 
 小林がシャーペンで菊地を指す。菊地は少し笑って立ち上がる。隠れていた怖い感情が部屋に満 
たされていった。片桐にはただ見守ることしか出来なかった。机上に置かれている作品も形だけで 
何も役に立たない。 
 新しいシナリオを書くために小林がシャーペンを下ろした。菊地の指から放たれた水がシャーペ 
ンを弾き飛ばした。高価なシャーペンは床とぶつかって重い音を立てる。 
「勝てないことは知ってますよね」 
 追って響いたのは不自然な位にゆっくりな菊地の口調だ。小林はただ睨むだけだったが十分答え 
になっていた。しかし菊地は笑うわけでも無く、真顔のまま手を翳す。向けられた手の先にいるの 
は片桐だ。目を見開く前に慣れた衝撃が走る。 
 ああ、さっきと同じか。漫画だったら完全にやられ役のキャラだろう。現実を諦めた片桐は腹部 
を抑えながら違うことを思う。倒れ込む前に作り上げた作品を見る。何故か上手く出来ている気が 
する。 
 小林が膝を折って片桐の名を呼ぼうとする。大きく上がった喉仏の近くを水の線が通る。小林は 
目を見開き菊地の方を向いて何かを叫ぶ。お守りのように握りしめていたノートが宙に浮く。 
「山田くんに同じことをされたんだ」 
 一瞬、全てが止まった。浮いていたノートだけが重力に従って落ちていく。左右対象に広がった 
ノートがシャーペンの横に落ちる。開いたページに小林以外が読めない文字が浮かんでいる。 
「何でそっちは許されたんですか」 
 初めて菊地が人間らしい表情を浮かべた。はっきりと眉を寄せ、母親を失った少年のような顔を 
した。何となく事情を悟った片桐が思う。許したせいで最悪の自体を招くなんて。 
 小林が少し動くだけで菊地が水を飛ばす。それに構わず近づいていく背中を片桐が眺める。無理 
なのは知っていた、腹部は熱くなる。 
 黒に属している二人の距離が近くなった。急に動きを速めた菊地が水でナイフを作り、小林の首 
に押しつけた。手の位置はそのままに、目線だけを片桐に投げてくる。大きく息を吸った。 
「なんで片桐さんは許したんですか?」 
 テレビで見るような高い声だった。何で、と言われても今の片桐には考えられない。しかし答え 
をいう必要は無かった。言う暇が無かったからだ。 
「少なくとも騙されてたわけですよね? 山田くんはそれを怒ってた。なら片桐さんも怒るのが普 
通じゃないですか。それとも、許すことしか出来なかったんですか?」 
 訛りを隠しきれていない疑問が続いたからだ。片桐は体を横たわらせたまま話を聞く。 
「ただ諦めてるだけじゃないですか。それに、怒るべきことはたくさんありますよね? 今こうなっ 
てるのも小林さんがいるからですよ。俺は片桐さんを恨んでない」 
「うるさい」 
 短く低い声は小林だ。威圧感を出した演技だった。小林は追い詰められると演技に頼るときがあ 
る。知っていた片桐は床に流れる血液を思う。 
 菊地は小林と目を合わせないまま続ける。 
「この人は許すだけで終わるようなことをしてない」 
「黙れ」 
「たくさんの芸人がこの人の掌に乗ってるのに。何人も犠牲になってること、知りませんか?」 
「頼むから」 
「それでも許せますか?」 
 小林がゆっくり振り返る。怯えたような表情を作り出す。いつか深夜番組で見たような余裕のな 
い表情。演技ですら忘れた素の表情。 
 片桐は思う。低い位置から見上げた空は澄んでいた。ゆっくり動く雲は楽屋の凄惨さを知らない 
まま泳いでいる。どこかから風が吹いている気がしたけれど、いつも反応する髪は揺れなかった。 
弱々しくなった感情の中で確かに流れた文章。 
 裏切らないさ。 
 怒りすら浮かべない無表情でいた片桐は床に流れる血液を思った。違った種類の無表情を取り戻 
していた菊地が空いている手を翳す。数秒して腹部の傷は消え、痛みもどこかへ飛んでいったが、 
横になったままの片桐は動かない。 
 菊地が水のナイフを下ろした。立ち尽くしたままでいる小林と擦れ違い、机上にあった作品を手 
にする。それを片桐の顔の前に置き、小さく呟く。 
「それで小林さんを撃ったら終わりにします」 
 置かれたのは擬態した銃だ。菊地はこれが力を持たないことを知らないのだろうか。知らなかっ 
たとしても、指の形にへこんだ銃を見たなら予想は出来るはずなのに。真意が分からない。それで 
も片桐は体を起こす。立っている小林と目を合わせたが行動には移さない。ここで撃ったら外傷は 
なくとも、小林の何かを壊してしまう気がしていた。 
 数秒沈黙が流れる。次の瞬間、誰かの携帯電話が鳴る。画面を確認した菊地が動揺を見せた。数 
秒間動きを止めていたが、やがて慌てたように電源を切る。怯えたようにドアを見ていた。どこか 
らか足音が響いてきた気がする。 
「早く終わらせてください」 
 冷静さを装った菊地が行動を急かした。待っていればいいのだろうか、あまりいい方向には進ま 
ないだろう。小林のシナリオからは大幅に脱線しているはずだから判断は片桐だけに委ねられる。 
「俺は平気だから」 
 背中を向けたままだった小林が振り返った。顔には諦めたような微笑をたたえている。無理やり 
細くしたような目を片桐に向けて小さく手を広げる。 
 誰かがドアをノックした。菊地が震えたが片桐には関係が無い。鍵が掛かっているせいで中には 
入れないらしい。何故か全てを拒絶するような風音が聞こえる。小林はただ笑う。 
「もう終わらせよう」 
 片桐が擬態した銃を手にする。いつもと感覚が違う気がしていたがどうでも良かった。地上の地 
獄に似たこの状況から抜け出せるなら。 
 閉ざされていたはずのドアが開いた音がした。そこにいたのが誰なのかは確認しなかった。引き 
金に掛けた人指し指に力を込める。幼い頃に聴いたような水音がある。 
「やめろ!」 
 第三者が声を張り上げたのと出てこないはずの銃弾が小林の鳩尾に刺さった。銃弾ではない、薄 
く流れた血に水が混ざっていた。結論は近い場所にあるはずなのに出てこない。考えられなかった 
からだ。 
「嘘だろ」 
 先程と全く同じ言葉を吐く。崩れる小林を受け止める。風を引きつれて駆け寄った第三者が手を 
翳した、撃った傷が薄くなっていた。しかし小林は表情を失ったまま動かない。 
「これでおあいこですね」 
 唯一菊地だけが救われたような表情をしていた。相方のはずの山田がはっきり敵意を向けている 
にも関わらず、だ。事情を知らない片桐には分からない台詞だった。小林は何も教えてくれなかっ 
た。 
 正座のような形で放心する小林の耳には何も届いていない。味方同士のはずなのに言い争う菊地 
と山田の表情はどこか逸脱している。決してあってはならない状況の中で残されてしまった擬態さ 
れたものを持ちながら呟く。 
「お前らおかしいよ」 
 言い争っていた二人が片桐の方を向いた。二人の目線を受けた片桐がまた呟いた。 
「黒って、何なんだよ」 
 一番知りたかった疑問を答えられる人がいるわけもない。第三者だったはずの山田が少し考え込 
んでいた。やがて関係者の表情に変わり、答えるかわりに小林を見やる。 
「黒?」 
 黒同士で知らないことあるのか? 
 山田は目線だけで菊地を止めた後、話が出来るか分からない小林の前で屈んだ。菊地とは違い人 
間らしい目をしていたがやはりどこか怖くて、隣で見ていなければならない片桐は一瞬だけ目を逸 
らす。その間に山田が口を開いている。 
「お前が上司か」 
 また訳が分からなくなった。山田は睨んだような目つきにかわり、ようやく顔を上げた小林と目 
を合わせる。一秒と少し時間が止まり、動き出す。 
「もう俺達に関わらないでください」 
 こっちの台詞だ、咄嗟の感情で片桐が拳を握るが動き出しはしない。後ろで菊地が怯えているの 
も怖かったし、小林が何か言いたがっているのが分かったからだ。小林はただ弱々しく顔を上げて 
呟く。 
「俺からは、もう関わらない」 
 山田が立ち上がる。菊地の方を向いて、後はお前次第だ、と意志を投げかけてから楽屋を去った。 
残ったのは動けない片桐と血の生臭い臭い、落ちているノートとシャーペンを食い入るように見つ 
める長身の男だけだ。急にノートを持ち上げた小林は乱雑に椅子に座り込み、囚われた目つきで自 
動筆記を始める。数分してから動きを止めて内容を読み出し、一回だけ声を上げて笑ったあと、泣 
きそうな顔を伏せて隠した。ポケットから取り出された黒い石が机上に転がる。 
「何もしなくても勝てるんだ」 
 右手で頭を抱えた小林がまた笑う。肩を震わせているから分かった。肩を震わせる理由は二つあ 
るが、もう一つの方の理由だとは考えたくもない。小林が机上の石を握る。 
「これがあれば帰ってくる。彼は分かってない、事情を持たない黒はいないのに」 
 片桐はただ独り言を聞く。手にしていた物をようやく離したら、床と当たってプラスチックのよ 
うな音がした。 
「俺だって」 
 操られていない水の気配がある。 
「彼がいないなら」 
 相方がもう一つの理由で肩を震わせている姿など見たくなかった。知らないふりをしてやり過ご 
そうにも血に塗れた服では外に出られない。事情を深く覗かないことだけを心がけて、小さい窓か 
ら外を見た。雲は変わらずに流れていたし、鳥はいつもの飛び方で羽ばたいていた。様々な液体で 
濡れた部屋だけが異常だった。 





 変わらない昼の空をあれから何回眺めただろう。何かを捨てたらしい小林は以前と変わらない態 
度で仕事に望んでいたし、片桐自身もあまり変化を見せないように心がけた。ただ一つ、粘土で銃 
を作ることはしばらく無い。 
 小林のいる楽屋へ戻る途中、黒い欠片を飲み込んでいる菊地とすれ違ったこともある。震えたが 
平常心を保った片桐は菊地の表情を見て、小林が呟いていたことを何となく悟ることが出来た。振 
り返って細すぎる背中を見送るが声を掛けることはない。 
 深く黒を追求する気は無かった。小林は隠したがっているようだったし、知ったらいけないこと 
も含まれているのだろう。近くの人も黒に属しているのだろうか。小林と共犯のような形なのかも 
しれない。いつもそこまで考えてやめる。 
 たまに雨が降ることはあっても空は変わらないし、仕事も減らない。家では温かい家族が待って 
いる。それ以上を望むとしたら何がある? 自問自答してやっと知った。 
 日常は帰ってきていた。けれど、既に形を変えてしまっていた。日常として歌っていたことは過 
去になっているから戻らない。 
 夢になった過去はもう、戻せない。 

 End.