Snow&Dark 第十章〜あべこべかがみのむこうがわ〜

195 : ◆8Y4t9xw7Nw :2006/02/15(水) 03:21:42

視界の悪さを研ぎ澄ました勘で補ってはいるが、視覚に頼らず相手の攻撃を正確に見切るのはかなり難しい。
「ぃっ…!」
手刀を弾いた時に手を浅く斬られたのも構わず、隙の出来た相手の懐に飛び込もうと一歩踏み込んだ山崎は、不意に膝に走った痛みに、ほんの一瞬思わず動きを止めた。
元々余り丈夫ではない上、昨日階段から落ちた時に打撲を負っていた右の膝が、悲鳴を上げたのだ。その事で逆に隙が生まれてしまい、降り下ろされた手を咄嗟に右手で掴んで山崎は歯を軋らせた。
上から押し込んでくるその力は、一般的な男女の力差を考慮に入れても尋常ではないと思える程に強く、手首を掴んでそれを押し止めている右手が、じりじりと下がっていく。
(んの、馬鹿力……!)
このままでは間違いなく押し切られるだろう。かといってただ攻撃を逸らしただけでは、大きな隙が生まれてしまう。
ここ数ヶ月の間にすっかり――不本意なのだが――喧嘩慣れしてしまった思考回路でそう判断した山崎は、相手の手を無理矢理振り払うと同時に右足を上げ、壁を蹴るような無造作な蹴りを繰り出した。
余り見栄えがいいとは言えなかったが、一切の手加減を忘れたその蹴りには、加速度と重さは十二分にある。油断があったのかまともに蹴りを食らった山里が数メートル吹き飛んだのを見れば、自ずとその威力が分かるだろう。

――ガシャン!

「っ……!」
勢い余ってフェンスに叩き付けられた山里が、初めてはっきりと苦痛の表情を浮かべた。
それを見ながら、攻撃を防ぎ切ったはずの山崎も眉を顰める。
蹴り飛ばした瞬間、微かに骨の軋む嫌な感触があったのだ。下手すれば肋骨に皹でも入れてしまったかもしれない。
あくまで自分の目的は相方を元に戻す――事が出来る人間のところまで引き摺ってでも連れていく――事だ。
半ば操られた状態の山里に余り酷い怪我を負わせるわけにはいかないのだが、咄嗟の事で加減が出来なかった。
手加減なしの蹴りはかなり効いたのだろう、山里はフェンスに凭れたまま動けないようだが、こちらも急激な運動量の増加に酸素の供給が追い付いていないのか、頭がくらくらして足元が覚束ない。
睨み合ったまま、一秒二秒と時間だけが過ぎる中、相方にここまで剥き出しの敵意を向けられたのは始めてだ、とふと思った。
猫を被っていると言えばそれまでだが、相方は――少なくとも自分とコンビを組んでからは――楽屋でも舞台でも滅多に怒らなかったから。
「――気に入らんな……今のあんたの目は」
呟いた声音は自分自身でも驚く程低く、雷を落とす寸前の雷雲のようで。
あぁ、やっぱり苛々してるらしい、と相変わらず他人事のように思う。
いや、苛々している、というよりは怒っているのかもしれない。それも、かなり強く。
(もしあたしがサイヤ人だったらスーパーサイヤ人になれるな、きっと)
わざとふざけた例えを持ち出して、怒りを鎮める。冷静さを欠けば、きっとそれは大きな隙となるだろう。
(そういえば、一度も言った事なかったな……)
腹黒いところも、女々しいところも、臆病で狡いところも、嫌いだけれど――それでも頼りにはしていたのだと、そう告げたら、どんな顔をするだろう。
自分勝手だと嗤うだろうか。

いつも、相方が愛想笑いばかり浮かべてなかなか本心を見せていない事は、気付いていたけれど許していた。
近所で有名な嘘吐き少年だったという相方が吐く見え透いた下手な嘘も、気付いていたし。
本番前、緊張している自分に「大丈夫」と声を掛けながら、相方も緊張で掌にびっしょりと汗をかいている事も、ちゃんと、分かっていたから。
だから、別に彼の本心を全て知りたいわけではないし、知りたくもない。
けれど――相方として信じて貰えなかった事が、頼って貰えなかった事が、酷く悔しかった。

『しずちゃん俺の事嫌いでしょ』

(あぁ、ったく――)
「――――――――――――――――」
偽りのない本音に、誰かの心に楔を穿つ程の力があるとしたら、この時の言葉がまさにそれだったのだろうが――。
「―――――――――――――――」
自分の耳にさえ届かないような小さな声で、半ば無意識に零れ落ちた言葉は、強いビル風に攫われて誰の耳にも届かない。
けれど、今の間になんとか動けるまでに回復したらしい山里は、まるでその言葉が届いたかのように、ほんの一瞬だけ――まるで泣き出しそうな子供のように――顔を歪め、その目に一段と強い殺気を込めて地面を蹴った。
ただ、脇腹に食らった蹴りがまだ効いているのか、その動きは先程までより僅かに遅い。
今の十数秒の間に僅かながら呼吸を整えた山崎は振り下ろされた手を避けると、追撃をかわす為に、砂塗れになるのも構わず咄嗟に地面を転がった。
一回転し跳ね起きると同時に身構えるが、山里の姿は既に視界から消えている。転がっている間に背後側に回った気配に山崎は気付いていた。
目に映る景色から、後ろが屋上の端である事が分かる。端である以上背後にそれ程空間はなく、距離も離れていないだろう。すぐ後ろに居るはずだ。
瞬き一つの間にそう判断を下し、耳を澄まして足音から仕掛けてくる方向を探ろうとする。

――聴こえた。

(右――!)
全力で石の力を開放出来る時間は残り僅かだ。次の一撃が勝負を決するかもしれない。
山崎は強く拳を握り締め、振り返り様に――


『確かにしずちゃんの勘は凄いけど、それに頼り過ぎると裏かかれた時に辛いよ?』


いつかの山里の言葉が、その瞬間鮮やかに蘇った。
拳を握ったまま、姿勢を低くし一歩後ろに下がる。自分の勘と感覚だけに頼らず、視界を確保する事を優先したのだ。
山崎が勘に任せてすぐさま反撃してくると思ったのだろう、守りを固めてから確実に迎撃しようとしていた山里が動くまでに、ほんの一瞬、隙があった。
彼女の戦い方を知り尽くしていたからこそ、判断を誤ったのだ。
その隙を見逃さず、一気に踏み込む。
渾身の力を込め、階段から突き落とされた時に出来た青痣が残る右膝を、その鳩尾目掛け思い切り叩き込んだ。
「……!」
鈍い音が響き、その膝蹴りをまともに食らった山里は衝撃に目を見開き、声にならない呻きを漏らして背中を丸めた。
(――あ)
山里の背後――そこに丁度大きなフェンスの破れ目がある事に、山崎がようやく気付いたのは、その時だ。
地面スレスレにあった破れ目の端に、衝撃で後ろに下がった左足が引っ掛かったらしい。山里の身体が、バランスを崩して大きく後ろに傾ぐ。
確認するまでもなく、その先に待っているのは――底の見えない闇。
「っ!」
一瞬息を呑んだ後、咄嗟に山里の腕を掴もうとしたのは、完全に無意識の行動だった。
片足を上げた直後でバランスが崩れている今、無理に山里を支えようとすれば、巻き込まれるのはほぼ確実だ。
だが、その時の山崎はそんな事は考えもしなかった。彼が自分を殺そうとしている事さえも、完全に頭から消えていたのだ。けれど――
目を細め、山里は差し伸べられた手を振り払った――まるで山崎を庇うかのように。
月を隠していた雲が流れ、細く欠けた月から降り注いだ淡い月光がその場を僅かに明るくする。山崎はその時確かに見た――山里の右目の虹彩を覆う黒い欠片に、縦に一筋、大きく罅が入っているのを。
それでも尚、その目は痛々しい程に全てを諦めていて。
その姿が、視界から消える。
(――ちくしょ……!)
普段の相方が聞いていたら「嫁入り前の娘さんが使う言葉じゃないよ」とでも突っ込みそうな、そんな言葉を無意識に心の中で叫びながら、山崎は石の能力を使う事も忘れ、迷わず底の見えない闇へ足を踏み出した。



鳩尾に叩き込まれた重い一撃は、苦痛を感じるよりも先に意識を遠退かせた。
視界が俄かに暗くなる中、腕を掴もうと伸ばされた手を目にし、そして振り払う――無意識に。
次の瞬間、自分自身の行動に山里は一瞬呆然とした。直後肺が引き攣ったような感覚がしたのは笑いの発作だったのかもしれないが、すぐに収まる。
耳ではないところで聞いた言葉が、心に深々と楔を打ち込んだ。真っ直ぐで、正直で、事実を的確に表した言葉。

『あんたならすぐに分かるはずやんか』
『好き嫌いの問題や、ないやろ?』

最初から、選択肢は二つしかなかった。
自分を苦しめるものを壊すか、それとも自分が壊れるか。
そして――自分に、彼女は殺せない。その事に、山里は気付いていた――今更。
そうだ、勝てやしない。勝つ気もない――本当ならば勝ち負けなんて概念すら必要ないのだけれど――。
踏み止まろうとした右足は上手く力が入らず、屋上の縁を踏み外す。ぐるりと視界が逆さまになった。
視界が暗転する。
なぜだか酷く笑いたい気分になり、山里はほんの少し、本人以外分からない程微かに笑みを浮かべた。



耳元でごうごうと風が唸っている。時間が間延びしたような奇妙な感覚に、鳥肌が立った。重力も身体の感覚も見失いそうな不快感に、思わず気絶してしまいたくなる。
歯を食い縛ってその誘惑を振り払うと、山崎は上――位置的には下なのだが――を見上げた。
山里は頭から真っ逆さまに落ちているというのに、身じろぎ一つしない。どうやらあっさり気を失ったらしい。
思わず心の中で罵詈雑言を叫びそうになるが、時間がない事に思い当たり慌てて頭の外に追い出す。
地上十五階からのフリーフォールだ。恐らくは地上まで五秒掛かるか掛からないかだろうし、このまま地面に叩きつければ即死は免れられない。
死の予感に悲鳴を上げる三半規管を強引に捻じ伏せ――少なくとも相方よりは度胸があるが、それでも山崎は普通の女性なのだ――壁を蹴り、僅かではあるが加速する。不快な感覚が更に強くなったが、今はそんな事を気にしている場合ではない。
その努力が実を結び、精一杯伸ばした右手の指先が、なんとか山里の服の右袖に触れた。
そのまま手繰り寄せるようにして距離を詰めると、左手も伸ばし両手でしっかりと手首を掴む。
あっさり意識を投げ捨てた山里に軽く殺意を覚えながら――それでも見殺しにする気が起きない自分自身の馬鹿さ加減にうんざりもしつつ――山崎は胸元の石に意識を集中させようとする。
力をセーブすれば、二・三分飛べるだけの余力は残っている。落下を止めるには充分だろう。だが、この高さから落ちながら意識を集中させるのはかなり難しい。力が発動するのが先か、地面に叩き付けられるのが先か――。
(――こんなアホと心中して堪るか!)
不吉な考えを打ち消すように、本音半分、強がり半分の叫びを心の中で発し、山崎は砕けんばかりの力を込めて――急ブレーキの衝撃で手を離してしまわないように――相方の手首を握り締めた。

いつの間にか服の襟元から零れ落ちていた、天使の翼を模したペンダントヘッド――その中央に填め込まれた赤褐色の石が、一際強い光を放つ。
そして、その背に鮮やかな白い光が溢れ――