Snow&Dark 第十一章――こおりのぱずるがとけるとき――

256 :XfMC.NGhQw:2007/01/01(月) 02:59:24

「――!」
微かに、聞き覚えのある声が聞こえる。呼ばれているような気がする。
その声に引き上げられるように、ゆっくりと、夢と現実の間から浮上していく感覚。
「――の、アホッ!」
「だっ!?」
苛立ちを含んだその声がやっとはっきり聞こえたと思った途端、後頭部に走った鈍い痛みに、山里は思わず奇声を上げて跳ね起きた。
「っつ……」
次の瞬間襲ってきた右目の強烈な違和感と、鳩尾から左の脇腹に掛けて走る軋むような痛みに、
山里は反射的に身体を丸め、涙目になりながら右目を掌で覆った。その右手の手首にも、微かな鈍痛が蟠っている。
大きくずり落ちていた眼鏡が、その拍子に外れてアスファルトの地面に転がった。どうやら、路地裏のど真ん中にうつ伏せで倒れていたらしい。
しかし、自分はこんなところで一体何をやっているのだろう?
ぽっかりと穴が開いたように欠けた記憶を疑問に思いながらも、右目を押さえたまま、とりあえず顔を上げる。
そこでようやく、すぐ傍に座り込んでいる山崎の姿に気付いた山里は、思わず左目を見開いた。
「……しずちゃん?」
どうして彼女までここに居る?
「えっと――」
どうしてここに、と言い掛けたところで、山里は凍り付いたように言葉を止めた。
眼鏡のないせいで酷くぼやけた視界でも、相方が泣きそうに顔を歪めているのが分かったからだ。
いや、視界の悪さと薄暗さのせいでよく見えないが、もしかしたら本当に泣いているのかもしれない。
ただ確かなのは、彼女がその顔に明らかな怒りを浮かべ、手を振り上げている事で。
一瞬呆然としていた山里は、彼女の平手打ち――というより、掌底と言った方が正しいかもしれない――をこめかみにまともに食らう事になった。

「っ!?」
派手な音がしない代わりに、一瞬とはいえ意識が飛ぶ程重い、本気の一撃だ。
「あんたってやつはホンマ、前から思っとったけど女々しいし腹黒いしドMやし顔は変質者やし大馬鹿野郎の腐れなすびのコンコンチキやこのドアホッ!」
拳を振り上げながら叫ぶ彼女の、いつもの朴訥とした雰囲気からは想像も付かないような捲し立てるような口調に、思わず気圧される。
山里は呆気に取られた表情のまま、かざした左手で振り下ろされる拳をなんとか受け止めるしか出来なかった。
「ついでに言うならろくでなしで人でなしでっ――」
そこで罵る言葉のバリエーションが尽きたのか、悔しそうに呻いて、山崎は乱暴に手を下ろす。
こちらに背を向けてしまった彼女の背中を数秒呆然と見つめたあと、ふと違和感を感じて山里は目を細めた。
よく見てみると、彼女が着ているパーカーの腕や脇腹には、なぜか鋭い刃物で切り裂いたような傷が幾つもあった。
その切り口に付いている、淡い色合いの生地に目立つ黒ずんだ染みは、もしかして――血、だろうか。
――ろ――る……
「……!」
不意に浮かび上がった感情の断片に息を詰まらせ、山里は背筋に走った悪寒に微かに身を震わせた。
肌を刺すような空気の寒さとは違う、身体の内側から凍えていくような感覚。
右目を押さえていたその手が、微かに震え出す。
――殺してやる……
靄が掛かったように曖昧な記憶の中、やけに鮮やかに浮き上がった、殺意。
山里は震える右手を顔から引き剥がすようにして、左手で手首を押さえた。
押さえ付けられ痛みを増したその手首には、人の手の形に、くっきりと痣が刻まれていた。
頭の中は真っ白になっていて、その癖どこかで冷静に蘇り始めた記憶を手繰っている自分が居る。それが酷く不快だった。
自分の無力さと嫉妬に押し潰されそうになりながら、それでも。
自分は、男だから。年上だから。コンビを組もうと、彼女を誘った側だから。
せめて隣に居る間だけは、守ってやるべきだと。
ずっと、そう思っていた――はず、なのに。

――殺してやる……!
自分自身の憎しみに圧倒されて、上手く呼吸が出来ない。
目の前に座り込んでいる相方は、自分に背を向けたまま、ただ黙っている。
何か言わなければいけない。何か――何を?
「――しず、ちゃん」
自分でも驚く程に掠れ震え切った、みっともない声ではあったが、何度目かの挑戦でようやく声を絞り出す事が出来た。
しかし、混乱した頭ではそのあとに続く言葉は全く纏まらず、咽喉に引っ掛かって出てこない。
「……なぁ」
不意に掛けられた低い声に、山里は思わずびくりと肩を震わせる。
右手首を押さえたままの左手に一層力が込もり、鈍い痛みが更に増した。
今は、彼女の言葉を聞くのが、怖い。
「『ごめん』なんて今更な事言うたら、もっかいしばくよ?」
けれど、続いて発せられた言葉は、予想よりも遥かに穏やかなものだった。
内容こそ突き放したものだったが、その声からは怒りも嫌悪も消え、ただ呆れたような響きだけがあった。
「……別に、何も言わんでええから」
そこで言葉を探すように数秒黙り込み――頭を掻きながら一つ深い溜息をつくと、山崎は自分の右隣の地面をぽんぽんと手で軽く叩き、呟くようにぽつりと言った。
「――せやから、ここにおれ」
オブラートに包むという言葉を知らない彼女にしては、随分と抽象的な表現。
けれどその意味に気付いた瞬間、最後まで心の奥で凍っていた何かが、大きく軋みを上げた。
「――っ」
きつく歯を食い縛り、零れ掛けた嗚咽を押し殺す。
麻痺した感覚では疼きにしか感じられなかったものが今、胸を刺す痛みに変わっていた。
どんなに抑えようとしても、溢れ出す涙を止める事が出来ない。
山崎がこちらを振り返ろうとしない事が、何よりの救いだった。
この期に及んでまだ意地を張る自分の心が忌々しい。
けれど、子供のように声を上げて泣く事も、ぐちゃぐちゃの顔を見られて構わないと思う事も、どうしても出来そうになかった。
そして、その右目――既に細かく罅の入っていた黒い欠片は、その涙に溶けるようにして少しづつ流れ落ち、アスファルトの上で結晶に戻って硬質な音を立てた。