Snow&Dark 第十二章――てんしがまいおりるとき――

361 : ◆8Y4t9xw7Nw :2007/02/25(日) 05:44:36

すぐ後ろに座り込んでいる相方が泣き止んだ事を気配で感じ取ると、山崎は振り向かずに立ち上がった。
「……荷物取ってくるわ。あんたも上に置きっ放しやろ? ついでに持ってきたるから」
それだけを告げると、返事を待たずに、背中に生み出した翼を使って飛び上がる。
屋上まで往復できる程度の力はなんとか残っていたし、もう一度非常階段を上るのは流石に遠慮したかった。

着地でふらつきはしたものの、無事に屋上に着くと、隅の方に放ってあった二つの鞄を手に取る。
ふと山里の鞄に目をやり、その端からはみ出している見慣れた携帯電話のストラップに気付いた山崎は、ほんの僅かな苦笑を口元に浮かべた。
この石の力を使えばもっと有利に事を運べただろうに、彼はそうしなかった。
口では色々言いつつも妙な騎士道精神を発揮したのか、それとも、心の奥にあった迷いのせいか。
紐の先でゆらゆらと揺れている青い石を掌の上に乗せると、青空の色をした石はまるで礼を言うかのようにキラリと光った。
その、濁りのない輝きに、思わず安堵の溜息が漏れた。
念の為に浄化の能力者に見せた方がいいだろうが、恐らく今日のところは大丈夫だ。
ストラップから手を離した山崎は、腕時計に目をやる。
特に終電の時間などを気にする必要はない。ただでさえ人並み以上の身長のせいで目立つ上に、この破れ目だらけの服では、電車に乗れるはずもないのだから。
ただ、少し時間を潰してから下に戻った方がいいだろう。
相方も、泣き止んだばかりでぐちゃぐちゃの顔は見られたくはないだろうし、こちらの精神衛生にも良くない。
待っている間煙草でも吸おうかとパーカーを探ってみると、左のポケットに突っ込んでいた煙草の箱はポケットごと見事に真っ二つに切り裂かれていて、山崎は眉を顰めてその残骸を握り潰した。
先程まで感じていたのとは違う、もうすっかり慣れてしまった微かな苛立ちが、心の奥を占めていく。

自分が山里に対して感じている不快感に、ある種の同属嫌悪が含まれている事は、とっくに理解していた。
面と向かって指摘した事はないが、自分達は、ほんの少し似た部分を持っている。
少々一般的な人間とは違う外見の事ではなくて――心の奥底に抱え込んだ、濃密な闇の気配が。
自分に似ているから――だからこそ、彼が心を閉ざす事が許せない。
もちろん、それがこちらの勝手な思いだという事は理解している。
きっとこれからも、相方は変わらず本心を隠そうとするだろう。抱え込んだものに、押し潰されるまで。
腹立たしいとは思うけれど、それはそれで構わないとも思う。
いざとなったら彼の心の扉など問答無用で蹴り破って、その手を掴んで引き摺り出してみせる。
――少なくともまだ、見捨てるつもりにはなれないようだから。
そんな自分自身の思考に、次の瞬間酷い胸焼けを起こしたような気分になって、山崎は眉間に皺を寄せた。
手持ち無沙汰になって、再び腕時計に目をやる。自分が屋上に上がってから、およそ五分。
そろそろ戻っても大丈夫だろう。これだけ経ってもまだめそめそしているようなら、もう一度ぶん殴られても文句は言えないはずだ。
目を眇めて雲の多い空を見上げた山崎は、その背中に生み出した翼を羽ばたかせ、コンクリートの床を軽く蹴った。

なかなか戻ってこない相方を待ちながら、山里はぼんやりと雲の流れを眺めていた。
流石にもう涙は止まっているが、目の辺りが腫れぼったい。
どうしようもない瞼の重さと脇腹の鈍い痛みに辟易しながら、屋上のフェンスの辺りに視線を移す。
相方が屋上へ向かってから、もう五分は経っているだろう。鞄二つ持ってくるだけにしては、時間が掛かり過ぎている。
もしかして、気を使ってくれているのだろうか。
ちくりと胸を刺す痛みに、眉を寄せる。
全てを許すと言外に告げた彼女の言葉に、救われたのは確かだ。けれど、自分自身を許し切る事は、まだ出来そうにない。
「…………」
息苦しさに目を伏せようとした、その瞬間――視界の隅に、大きな影が浮かんだ。

深い藍色を含んだ空に、細く欠けた月が淡い光を放っている。
その弱い光にぼんやりと浮かぶ、身の丈程もある翼を広げ舞い降りてくる影。
月光を浴びて微かに輝くその白さに、少しの眩しさを感じて、目を細める。

――けれど、あの胸を焦がすような痛みや苛立ちは、不思議と感じなかった。