Snow&Dark 第三章〜ふきあれるふぶき〜

12 : ◆8Y4t9xw7Nw :2005/07/28(木) 01:50:22

あの時――山崎が階段から落ちたところをただ一人目撃したスタッフは、山崎が誰かに背中を押されてバランスを崩したその瞬間は見ていない。
だから、彼女が「誰かに突き落とされた」事を知っているのは、本人と――

山崎の一言で自分の犯した失態を悟ったのだろう、山里の顔から、笑みが消えた。

なぜ気付かなかったのだろう。
今思い返してみれば、階段から突き落とされたあと、楽屋に戻ってきた時、相方の姿がやけに目立って――周りから浮いているように見えはしなかっただろうか。
相方の能力も、その代償も、誰より理解していたはずなのに。
「動揺してる、ってのはあながち嘘でもないみたいやね? こんな単純なミス……」
次の瞬間頭に浮かんだ余りに場違いな言葉に、思わず苦笑が漏れそうになる。
だが、一度浮かんだ言葉は打ち消すより先に無意識に口から零れていた。
「……あんたらしく、ない」
本当に単純なミスだ。あのスタッフが言ったであろう言葉通り、「階段から落ちたんだって?」と問えば済む話だったのだから。
スタッフから「相方が階段から落ちた」と聞かされて一切心配しないのもあとで疑われると思ったのだろうが――思わず口を滑らせてしまったのは、相方を突き落とした事で少なからず動揺していたという事だろう。
「……俺らしくない、か……」
いつもより、少しトーンの低い声。
背筋を這い上がってきた悪寒に唆されるように、思わず一歩後退る。
「かもしんないね」
その口元には微かな苦笑が浮かんでいて、まるで感情が込もっていない無表情、というわけではない。
ただ――その表情の質は、【黒い瞳のイタリア人】を自称する普段の彼から、余りに懸け離れているように思えた。
例え笑っている時でもその目が笑っていないように見える事には、慣れていたつもりだったのだが――今は、目の前に居るこの男が心底怖い。
「………どうして」
その言葉を口にした瞬間、一瞬だけ山里の口元に浮かんだ笑みが深まったような気がした。
浮かびかけたのは苦笑か、それとももしかしたら嘲笑だったのだろうか。
「……言っても多分分かんないと思うよ? ほら、俺嫌われちゃってるみたいだし」
少しおどけた口調でポツリと呟く。まるで、笑い話だとでも言うように。
ふとその目に痛々しい程の諦念を見た気がして、思わず視線を逸らす。
「……答えになってないと思うんやけど」
「そうかな。でもさ、もうどうでもいいじゃない? 所詮言葉なんてその程度、っつったら色んな人に失礼かもしんないけど。どこまでいったって…伝わんない事の方が、多いような気がすんだよね」
どこまで行ったって――どこまで言ったって。少し芝居がかった言い回しで、そう告げる。
その声も時折関西のイントネーションが交じるところも普段と全く同じで、悲愴さを漂わせていたわけでも、声を荒げたわけでもなかったけれど。

――もしかしたらそれは、悲鳴だったのかもしれない。

「だから、さ。自分の気持ちに正直に行動する事にしてみたんだ。馬鹿だと思うかもしんないけど」
「……あぁ」
ホンマに阿呆や、と続ける事は出来なかった。
次の瞬間、一気に間合いを詰め迷わず鳩尾を狙ってきた山里の拳を、山崎は咄嗟に左手で受け止め弾いた。
それを見るや否や素早く後ろに下がった山里は、右手を軽く振りながら小さく感嘆の溜息を漏らす。
「――まさか左手一本であっさり止められるとは思わなかったな……ホントに凄いね、しずちゃんは」
「……ドMのあんたと違って殴られるのは好きやないからな」
普段より抑揚に乏しい山里の言葉にそう返しつつも、山崎にそれ程余裕があったわけではない。
咄嗟に拳を受け止めた左手は、衝撃に痺れている。
一般的な男女の力差を考えればそれ程不思議な事でもないのだが――誰かを殴る、という行為から余りに縁遠い相方を見てきたせいだろうか、その拳は予想外に重く感じる。
「……何がおかしい?」
不意に笑みを深め俯いた相方に眉を顰め、山崎は思わず低い声で問い掛ける。
「いや……しずちゃんに殴られたり突き飛ばされたりした事なら山程あるけど、殴る側に回った事ってなかったよなぁと思って」
返ってきたのは、気が抜けるような台詞。だが、その目は相変わらず氷のように冷たく、山崎は喉に突っ掛かる言葉を無理矢理搾り出す。
「……気持ち悪い事、言わんといてくれる? ただでさえキモいんやから」
「ひっでぇ、そっちから訊いたんじゃん」
緊張感のない会話に聞こえるが、その場に流れる空気は、気弱な人間なら泣いて逃げ出したくなる程ピンと張り詰めていた。
じわり、と背中に冷や汗が滲む。
「大体、グーで殴るのは反則やろ……『女の子はシャボン玉』、なんやで?」
「……シャボン玉浮いてんの見てるとさ、割りたくなんない?」
ネタ中の台詞を使って揶揄するような言葉を投げ掛けた山崎に、山里は目の笑わない笑みを向けたまま答える。
そして、次の瞬間――きゅっ、と床を蹴る微かな音が聞こえたのと、すぐ目の前で振り被られた拳を認識したのが、ほぼ同時だった。
(っ!?)
尋常なスピードの踏み込みではない。何かの力によって、人という枷を緩めた者にしか出せないような速さだ。
普通の反応速度では防ぐ事が出来ないと無意識的に察知し、ほんの僅かに残った石の力を、理性が吹き飛ぶ境界線ギリギリまで解放する。
そして眼前に迫るその拳を防ごうと右手を上げた、その瞬間。
視界に映った【それ】を認識して、山崎の目が驚愕に見開かれた。
様々な感情がない交ぜになって混沌とした瞳が、間近に見える。
左目と違い、黒目の輪郭がぼんやり滲んだように見える、その右目。

――不吉な黒い影に虹彩を覆われた、闇色の瞳。

その右目に視線を奪われたのは、動きが止まったのは、コンマ一秒にも満たないほんの一瞬。
だが、その一瞬が決定的な隙となった。

そのあとの事を、山崎はよく覚えていない。
ただ――こめかみに、重い、衝撃。