Snow&Dark 第四章〜しろいゆめ、つきささるいたみ〜

16 : ◆8Y4t9xw7Nw :2005/07/29(金) 00:11:26

――ざぁぁぁぁぁ……

一面の、白。舞い散る、真っ白な欠片。強い、風。
白い欠片――雪が視界を埋め尽くしている。
寒さは感じない。美しい白銀に埋め尽くされた景色を、山崎はただぼんやりと眺めていた。
微かな風の音以外に何も聞こえない。綺麗だけれど、どこか恐怖すら感じる白。

ふと、一色に埋め尽くされていた視界に白以外の色が映った。
すぐ近くに見える、黒い――人影。
(!)
ほんの一瞬、吹雪の隙間に見えたその人影が誰なのかすぐに思い当たり、山崎は思わず声を上げた――いや、上げようとした。
(っ!?)
声が、出ない。影の方へ駆け寄ろうとしても、そこに自分の足があるという感覚がない。
ようやく、山崎はそこに自分の身体というものが存在しない事に気付いた。
視界を埋め尽くす吹雪が、僅かに勢いを弱める。
視界が少し晴れ、人影の正体がはっきりと見えるようになった。
悪目立ちする真っ赤なフレームの眼鏡、緩やかなカーブを描いてきっちり切り揃えられたマッシュルームカット、『イタリアの伊達男』をイメージしているらしい、過剰に洒落たその格好――間違いなく見慣れた相方の姿だ。
足首の辺りまで雪に埋もれているにも関わらず、彼の周りだけはまるで凪のようにピタリと風が止んでいるようだった。その証拠に、服の裾が少しも靡いていない。
そしてその視線が、意識だけしか存在していないはずの山崎の方へ、しっかりと向いた。
眩しいものでも見るように僅かに目を細め、口を開いて何かを言い掛けたあと――結局何も言わず山里は微かに苦笑を浮かべた。
全てを諦めた、痛い程に静かな笑み。

『言っても多分分かんないと思うよ?』

不意に思い出したその言葉が、まるで託宣のように脳裏に響く。
再び、吹雪が強さを増した。全てが白に掻き消されていく。
待てと叫ぶ喉も、引き止める為に伸ばす腕も、駆け寄る足もない。
もう、叩き付けるように降る雪しか見えない。

――ざぁぁぁぁぁ……

こんな景色は知らない。見た事もない。
だから――
これは夢だ。
わるい、わるい、ゆめ――



「!…いっ……」
目を開けた途端飛び込んできた白い床を夢の続きと錯覚し、慌てて起き上がろうとした山崎は、襲ってきた頭の痛みに思わず低く呻いた。
床に倒れたままこめかみを左手で押さえ、歯を食い縛る。
じっと痛みを遣り過ごしていると、少しづつ、先程までの記憶が蘇ってきた。どうやら頭を殴り付けられて気を失っていたらしい。
頭の芯まで響くような鈍い痛みに耐えながら何とか上体を起こすと、楽屋に相方の姿はなかった。荷物もなくなっているから、先に帰ったのだろう。
チラリと時計に目を向けると、気を失っていたのはほんの二・三分だったようだ。
背後の壁に背中を預けた山崎は、軽く舌打ちした。
まだ立ち上がる事は出来ない。座り込んだまま、じっと痛みが引くのを待つしかなかった。
石を巡る争いの中多くの芸人がそうしているように、彼らも何かと理由を付けてはマネージャーと離れて行動している。あと数分程度ならここに座り込んでいても大丈夫だろう。
「……?」
ふと、手元に四つ折りされた紙切れが落ちているのに気付いて、拾い上げる。
綺麗に折り畳まれたそれは、掌程の大きさのメモだった。

(あ……)
開いてみると、黒いボールペンで書かれた、余り綺麗とは言えない見慣れた字が並んでいる。
何を書こうか迷った様子が窺える小さな点のあと、たった一言。
『また明日』
そして、少し間を空けて小さな文字で書き足された言葉。
『P.S
明日の仕事が全部終わるまでに、心の準備ぐらいはしておいて。……殺されたくなかったらの話だけど。
手加減なんてしてあげないから』
何の乱れもなく、あくまでいつも通りに――殺意を告げる文字。

『ほら、俺嫌われちゃってるみたいだし』

不意に思い出したその言葉。
それに引き摺られるように、記憶の奥深くから、二ヶ月程前のあの日の場景が浮かび上がってくる。

『しずちゃん俺の事嫌いでしょ』

(――ぁんの阿呆!)
山崎は思わず手にしていたメモをぐしゃりと握り潰し、握り締めた拳ごと壁に叩き付けた。
鈍い音がして手が痺れたが、知った事ではない。
「好きではない」と「嫌い」が場合によっては同義語ではないという事ぐらい、それなりに頭の回転が速い山里ならすぐに分かっていたはずなのに。
(――偶然にしちゃ出来すぎやろ……)
山里の右目に見えた黒い影。あの日、ゴミが入った右目を頻りに気にしていた彼の姿。
点のように散らばっていた事実が、繋がって一本の線になる。
いっそ笑い出したくなる程の偶然だ。あのゴミさえなかったら。
いや、あのゴミが――黒い欠片でさえ、なかったら。

『……まぁ、好きでない事だけは確かやな』

けれど、最終的に引金を引いたのは間違いなく自分の一言なのだ。
もう一度壁を殴ろうと振り上げた手が、力なく下ろされた。
(阿呆なのはあたしも一緒、か……)
あの答えにはそれ程深い意味があったわけではなくて。
ちょっとした意地悪。ちょっとした悪い冗談。
本気で哀しませるつもりなんてなかった。傷付ける、つもりなんて。
ネタ中では【硝子のハート】を自称する事もあったけれど、山崎の知る相方はその言葉から受けるイメージよりはもっとずっと強かだったから。
だから、いつも通り冗談半分に返した。山里もいつものように笑って済ますだろうと、笑って済ましたのだと、疑いもしなかった。
「……いったぁ……」
無意識に、ぽつんと呟く。
痛い。どこが痛いのかはよく分からないのだけれど、痛かった。
打撲した膝か、殴られたこめかみか、壁に叩き付けた手なのか、それとも――傷付けられた心、なのか。
握り締めた手に、強く力を込める。

女の自分より女々しいだとか、笑っていても目が笑ってないような気がするだとか、案外腹黒いだとか、嫌いなところなら山程あるし、特別に仲が良いわけでもない。
ただ――のんびりと二人で過ごす待ち時間に居心地の良さを感じていたのも、確かで。
(いったいなぁ、ほんまに……)
認めるもんか。絶対に認めてやるもんか。

――本当は……裏切られた事に泣きたくなる程信頼してた、なんて。

そう思っている時点でもう認めてしまっているのだと、気付いていたけれど。

(……帰ろ)
まだ鈍く痛む頭を押さえて、ゆっくりと立ち上がる。
部屋の暖房は充分に効いていたが、心は凍えそうに寒かった。

――ざぁぁぁぁぁ……

夢の中で聞いた風の音が、耳の奥に蘇る。

――春は、まだ遠い。