25 : ◆8Y4t9xw7Nw :2005/07/30(土) 01:43:36
真冬の風は、服を着込んでいても染み入ってくるような気がする程に、冷たい。 赤信号の交差点で足を止め、山里はその風の冷たさに微かに身震いした。 深夜に近い時間だが、山里と同じように信号待ちをしている人間は決して少なくはない。 俯き、レンズに触れないよう気を付けながら、右目をそっと掌で覆う。 完全に黒い欠片に覆われたわけではないにも関わらず、その右目はもう何も映さなくなっていた。 なぜあの場所に黒い欠片の断片が落ちていたか――恐らくは、以前あの楽屋を使った芸人の中に『黒』の人間が居たのだろう。 急激に侵食してくる影に気付いたのがほんの二週間程前の事だった事を考えれば、目に入った小さな欠片は、自分が抱いた小さな負の感情を養分としながら少しづつ力を蓄えていったのだろうか。 空に映える真っ白な翼はいつだって余りに綺麗で、強く。 自分の弱さや汚さを思い知らされるような気がした。 余りに眩しくて、遠すぎて。届かない、追い付けない。 目に巣食った黒い欠片のせいでそう思ってしまったのか、それともその暗い感情が欠片を育ててしまったのか、それは分からないけれど。 負の感情を充分に吸い込んだ欠片は一気に育ち、視界――そして心――を覆い尽くした。 ――美しい姿は醜く、笑い顔は泣き顔に映る、あべこべ鏡。 ふと思い出したその言葉。一瞬考えて、それが【雪の女王】に出てくる悪魔の作った鏡の事だと思い出す。 目に悪魔の作った鏡の破片が刺さってしまった少年・カイと、そのせいで人が変わり雪の女王に連れ去られてしまったカイを追う幼馴染の少女・ゲルダの物語。 小さい頃に見た、随分と懐かしい童話だ。 あの話の結末はどうだっただろう。確か、ハッピーエンドだったと思うのだが。 (……あんな威圧感のある【ゲルダ】に迎えに来てもらうのは流石に遠慮したいなぁ……) そう無意識に考えを廻らせてからカイとゲルダに自分達を重ねている事に気付き、我ながらくだらない事を考えているな、と山里は心の中で苦笑した。 ただ――くだらない事と承知で例えるならば、この欠片は悪魔の鏡の破片と雪の女王、その両方の役割を持っているのだろう。 自分の心を変え、冷たい闇に引き寄せる負の力。 目を覆っていた右手を下ろすと、その指先に一瞬小さな闇色の光が灯った。 今まで必死に抑え込んでいた力の奔流が、ほんの僅かに溢れ出る。 人を殺す事も容易に出来る、強力な破壊の力。 この黒い欠片というものの予想外の万能さには驚かされるが、その力を使いたくないと思う程度の良心はまだ残っている。 ただ、段々と自制が難しくなってきているのも事実だ。 もう隠し通すのも限界だった。その証拠に、今日は沸き上がる激情を完全に抑える事が出来ず、手加減なしで――しかも思い切り頭を狙って――殴り付けてしまったのだから。 気絶した彼女に止めを刺さなかったのが奇跡的にすら思える。 壊すのは、殺すのは、守る事よりも遥かに簡単だ。 ――壊したい? それとも守りたい? 不意にそんな問いが脳裏に浮かんだが、一度目をきつく閉じて思考の外に追い出した。 考えたところで、まともな答えを出せそうにない。 何も気付くな、と思っていた。 早く気付いてくれ、とも。 壊したい、と。守りたい、と。 感情を持て余している聞き分けのない子供のようだと、心のどこかでは認めていて。 別のどこかでは、認める事を拒んでいた。 思わず口を滑らせたのも、山崎を気絶させながら止めを刺さなかったのも、まだ自分の心の中に迷いが残っているからだ。 思考は常に混沌と矛盾。あと少しで、境界線を踏み越えてしまいそうな。 そこを越えて衝動に身を任せてしまえばもう自分ではなくなると――そして、その方が余程楽だという事も――分かっていた。 一歩足を踏み出せば、あるいは一歩足を引けば、それで事足りる。 今青になっている歩行者用の信号が、点滅し始めた。もう少しでこちら側の信号が青になるだろう。 顔を上げてそれを確認した山里は、ふっと溜息をつき軽く右の拳を握り締めた。 手加減なしで殴り付けたせいだろう、骨は折れていないようだが、拳は赤くなりズキズキと痛んでいる。 だが、今の自分にはその痛みさえどこか遠かった。 冷たさに麻痺した指先で何かに触れた時のように、今は自分自身の感情が酷く曖昧にしか感じられない。 そして――そんな冷え切った心の中で一番はっきりと感じられるのは、ドロドロとした負の感情だ。 怒り、嫉妬、憎しみ――殺意。 ――だから、早く。……君を殺してしまう前に。 心の奥底で呟いた本音は余りにも小さく弱く、山里自身も気付かない。 明日には、もう手加減も出来なくなっているだろう。ふつふつと湧き上がってくる激しい殺意を抑えるので精一杯だ。 だから明日にはきっと、何かしらの決着が付く。例え、その結果境界線を踏み越える事になるとしても。 自動車用の信号が黄色から赤に変わるのを目を細めて見ながら、山里はズボンのポケットから出ている携帯電話のストラップに、手を触れた。 元々は白いハウライトを青く染めて作られる、トルコ石を模した石。 余りに鮮やかすぎる、偽りの青。 街の明かりを反射して微かに輝くそれを、指でいらう。――祈るように。あるいは、何かを探すように。 そして、山里は微かに唇の端を上げた。微かだけれど、作り笑いではない自然な笑み。 大丈夫。大丈夫。 まだ笑える。――まだ、嗤える。 口元に浮かんでいた笑みが、無意識のうちに嘲るように歪んでいく。 信号が、青に変わった。止まっていた人の流れが、再び動き出す。 再び心の闇に呑まれていく彼の姿が、雑踏に紛れて消えていった。 雪が降る。音もなく、深々と降り積もる。 全てを掻き消すように。全てを凍て付かせるように。 誰かの心に――雪が、降る。 |