Snow&Dark 第七章〜ふりつもるおもいにうもれ〜

103 : ◆8Y4t9xw7Nw :2005/08/09(火) 16:57:13

――見上げれば、白い月。

山崎が非常階段を黙々と上り続けていたその頃――屋上で相方を待つ山里は、所々錆び付いたフェンスに寄り掛かり、じっと空を見上げていた。
ビル風が吹き抜ける屋上の体感温度はかなり低いはずだが、不思議と寒さは感じない。
遠く、雑多な街の音が聞こえる。振り向けばフェンス越しに繁華街の様子が見えるだろうが、今は街の様子を眺める気にはならなかった。
いつも賑やかでどこか温かいあの雑踏が嫌いなわけではないけれど、今はこの冷たい静けさの方が心地良い。
細く欠けた真っ白な月を、ただじっと眺める。
僅かに藍色を含んでいるはずの空の色は、今の自分には墨で塗り潰したような黒にしか見えなかった。
目に映る景色は、黒と、白と、濃淡があるだけの灰色で描かれている。

――世界から、色というものが完全に消えていた。

右目に巣食った闇が左目まで侵食したのだろうか、とぼんやり考えながら、視線を前に戻す。
もしかしたら色彩以上に大切な何かを失ったのかもしれないと、そう心のどこかで感じてはいたが、例え探したとしても見つけられるとは思えなかった。今の自分はきっと、すぐ目の前にあっても見落としてしまうだろう。
視界を覆う影が急激に広がり始めたのは二週間程前の事だが、恐らくは欠片が目に入ったあの日に、既に変化は始まっていたのだ。

『俺の事嫌いでしょ』

ふと、どうしようもない不安に駆られて――今思えば、あの異常な不安感は黒い欠片の影響だったのだろう――あの言葉を口にした時点で。
そして、返ってきた返事を聞いた瞬間、決定的に何かが変わった。
あれから相方の目を見る度に感じるようになったあの感情は、嫉妬かそれとも畏怖なのだろうか。
彼女の目に、その強さに、自分が持っている弱さも汚さも全て、まるで鏡のように映し出されてしまうような気がして――自分自身でも上手く説明出来ないその感情は、どこにもぶつける事が出来ず、膨れ上がって容赦なく自分を押し潰そうとしてくる。
こんな思いをするぐらいなら、いっそぶち壊してしまえばいい。
押し潰される前に。吐き出す事も出来ず積もっていく思いに埋もれて、息が出来なくなる前に。

ねぇ、どうして君はそんなに強いの?
どうしてそんなに心が綺麗なの?
ねぇ、どうして。

――俺はこんなに弱くて醜いのに。

心のどこかには、まだほんの少しの迷いが残っていた。
けれど、抗えない。耐えられない。
この憎しみに。殺意に。苦しみに。痛みに。
どす黒い殺意の炎が燃え上がっているにも関わらず、心の奥は氷のように冷え切っていた。
微かに痛む右目を右の掌で覆い、俯く。その口元には張り付いたような笑みが浮かんでいる。
深い闇を孕んだ、嘲笑。
凍えるような冷たい風が首筋を撫でるように吹き抜けていく。
非常階段を上ってくる足音が、微かに耳に届いた。

無意識に口元に張り付いた嘲笑が、消えない。
誰を嘲笑っているのだろうか。一体誰を。

闇しか映さない、右目の奥に――まるで愚かな自分を咎めるかのように、微かな鈍い痛みが居座っている。


――吹き抜ける冷たい風よりも更に冷たい気配が、そこにある。


扉の向こうの人影をじっと見つめたあと、目の前の扉に視線を移した山崎は、鍵やドアノブがあったはずの部分が何かで切り裂いたように壊れているのに気付き、僅かに眉を寄せた。
ポケットから右手を出し、冷たい扉を軽く押す。
キィ……と錆び付いた鉄が軋む高い音を立てて、扉がゆっくりと開いた。
目の前に広がるのは、在り来たりな【屋上】の風景だった。それなりに古いのか所々罅割れ破片が転がるコンクリートの床。周りを囲むフェンスは、なぜか数箇所大きな穴が開いている。
地上より、少しだけ空が近く感じる。
扉の横に置いてある見慣れた鞄の横に自分の鞄を置き、行儀が悪いとは思いつつ開いた扉をそのままにして足を踏み出した。

形あるものや言葉だけを信じる、その事の危うさや哀しさを忘れてしまう程に追い詰められた相方の心に気付くべきだったと、今は心の底からそう思う。
いつの間にか、言わなくても全てが伝わると思っていたのかもしれない。
本当は――余り認めたくはないのだが――そんなに嫌っているわけではないのに、何かと気遣われるからつい意地を張ってしまう。
例え理解してくれている相手であろうとも、言葉にしなければ伝わらない事はあるというのに。
――だから。
だからせめて、逃げるような真似だけはしたくなかった。自分勝手な考えかもしれないが、それが今の自分が出せる最善の答えだと、そう思ったのだ。
(――我ながら不器用やな……山ちゃんの事笑えんわ)
一歩一歩、ゆっくりと足を進めながら、山崎は僅かに苦笑を浮かべた。

屋上の端――フェンスに近付くに従って、人影の正体がはっきりと見えてくる。
自分をここに呼び出した張本人である相方は、所々錆の浮いたフェンスに背中を預け俯いていた。
きっちり切り揃えられた前髪と黒い上着の裾が、吹き抜けるビル風に微かに揺れている。
たださえ悪目立ちする外見に加え、それなりに背の高い――山崎よりは低いがそれでも平均より五センチ以上高い――山里の立ち姿は、やはり普段と同じく異様に目立っているが、その周りに漂う空気は普段とは違い、真冬の冷気よりも更に冷たく思えた。
並みの神経の持ち主なら凍え死ぬかもしれないと、本気で思ってしまう程に。
それは例えるならば、踏む場所を間違えればすぐにでも砕け散ってしまいそうな薄氷に覆われた真冬の湖。
あるいは――全てを凍て付かせる、吹雪の中心。

山里がゆっくりと顔を上げた。視線が真正面からぶつかり、時間が止まったかのような沈黙が流れる。風が、一際強く吹き抜けた。
遠く響く雑多な街の音も耳に入らない静けさは――密やかな殺意、あるいは忍び寄る穏やかな狂気にも似ていて。

そのままどのくらいの時間が流れたのだろう――恐らくはほんの数秒だったのだろうが――、左腕の時計にチラリと視線を向けたあと、山里が軽い調子で右手を上げた。
「ちょっと遅かったね」
「……まさか非常階段十五階分上らされるとは思わんやろ、普通……」
反論というよりはぼやくように言いながら、山崎は胸元のペンダントの石に意識を集中させた。微かに赤い光が漏れ出す。
力が発動すると同時に、視界が急激に暗さを増した。身体能力の向上と引き換えに、夜目が利かなくなる。
鳥が夜の空を飛ばない理由を身に沁みて理解しながら、それでも迷いなく地面を蹴った山崎は、凄まじい勢いで距離を詰め握り締めた右の拳を振り被った。