Snow&Dark 第八章〜ちかくてとおい〜

166 : ◆8Y4t9xw7Nw :2005/08/31(水) 03:49:04

人外の力を借りて駆け抜ける身体は、いつもより数段軽い。
数メートルの距離を一息で詰めた山崎は、顔に当たってくる風と、向けられる冷たい視線に、僅かに目を細めた。
極端に視界が悪い今の状態でも、山里の右目が異質な冷たい光を放っているのが見える、ような気がする。
底に見えない闇に塗り潰されたその瞳は、近くで見てみれば、少しだけ茶色味を帯びた左目とは明らかに色が違うと分かるだろう。
元々、紳士的な態度に見合わない眼光の鋭さからネタにもされている目だ。異様な輝きを帯びたその目にはかなりの威圧感がある。
背筋を這い上がる悪寒には気付かない振りをして、山崎は拳を繰り出した。常人なら避ける事は不可能なスピードだ。
だが――山里はぴくりと右眉を上げただけで驚く事もなく、何気ない動きで左手を上げると、山崎の手首を掴んでその拳を止めた。ネタ中に殴り掛かる山崎の拳を止める時と、同じように。
その軽い仕草とは不釣合いな、鈍く重い音が響いた。
それなりに重い山崎の拳を片手で止めるのには、相当の腕力が必要だろう。その手の冷たさと、かなり強い力で掴まれた手首の痛みに、山崎は僅かに顔を顰めてその手を振り払う。
反撃を覚悟して素早く後ろに下がったが、意外な事に山里はフェンスに凭れたまま動こうとはしなかった。
拳を受け止めた時の衝撃で痺れたのか、左手をぷらぷらと振りながら、軽く溜息を零す。
寒い屋上に長時間居たせいだろう、その顔は心なしか青褪めていた。
「……別に変身途中とか前口上言ってる途中とかじゃないけどさ、こういう時って奇襲はしないのがよい子のお約束ってもんじゃないの?」
静かな口調ではあるが、レンズの奥から向けられる視線は、痛い程の諦めを含みながらも、研ぎ澄まされた刃のように鋭い。
その視線を真正面から受け止め、それでも山崎は微かに笑みを浮かべた――強張った顔の筋肉を無理に動かしたような、ぎこちない笑みではあったが。
「そんな事言えるような堂々とした手段、使ってないやろ」
石の能力で気配を消して階段から突き落とすような人間に言われたくない、と言外に告げれば、酷薄な――少なくとも山崎にはそうとしか見えない――笑みが返ってきた。
「まぁ、ちょっと卑怯だったかなとは思うけどさ。あれはあれで悪役の常套手段でしょ」
その目がいつも以上に笑っていない、唇の端だけで作られた笑み。その目の冷たさに気付かなければ、優しい笑みに見えない事もないのだろう。
そういやイタリアのマフィアは殺す相手に優しくするんやったな、などと場違い甚だしい事が一瞬頭を掠めて、相方のイタリアかぶれが移ったかと僅かに苦笑する。
こんなくだらない事を考えていられる間は、まだ大丈夫だ――多分。
密やかなその苦笑に気付いたのか、僅かに眉を寄せて山里が口を開く。
「あのさぁ……しずちゃん、全力出してないよね?」
唐突な問い掛けだったが、予想していた言葉ではあった。
石を手に入れてから、一番近くで自分の戦いを見てきた人間だ。例えほんの少しでも、手加減すればすぐに見抜かれる。
「さぁ、どうやろ?」
無意識に、挑発とも取れる言葉が出た。もしかしたら自分自身で思っている以上に苛立っているのかもしれない、と半ば他人事のように思う。
全力を出さなかったのではなく出せなかったのだと――ほんの一瞬躊躇ってしまったのだとは、口が裂けても言いたくはなかった。
冷ややかな、沈黙のあと。
山里は、軽く反動を付けてフェンスから背中を離した。その体重から解放されたフェンスが、微かに軋みを上げる。
「――手加減しない、って伝えといたのに」
一瞬、拗ねた子供のような表情を浮かべたように見えたのは、気のせいだろうか。
一歩足を踏み出した山里の動作に攻撃の意思を感じ取って、山崎は半ば無意識に身構えた。ぴんと張っていた緊張の糸を、更に張り詰める。

だが、その動きは山崎の想像を遥かに越えて速く――そして、凶暴だった。
昨夜と同じ、凄まじい速さの踏み込みで瞬く間に距離を詰めた山里は、右腕を振り上げる。無理に感情を押し込めているようにしか見えない、無表情で。
手刀の形に揃えたその指先が、淡く闇色の光を帯びる。
その手を視界に捉えた瞬間、本能の警告に従い後ろに跳んだ山崎は、咄嗟に左腕を目の前に翳した。

――ザッ!

「っ……!」
微かな鈍い音と共に、服の左袖が、まるで鋭利な刃物で切られたかのようにザクリと裂けた。
その切り口から覗いた肌に、じわりと滲み出した血で真っ直ぐな紅い線が描かれる。
「――へぇ、上手く避けたね」
なんとかバランスを整えて着地した山崎に投げ付けられた声は、今まで彼女が聞いた事がない程に硬質なものだった。声そのものは同じなだけに、その違いがはっきりと分かる。
「……一つ訊くけど、凶器攻撃も悪役の常套手段?」
「まぁね。悪役にフェアプレー求める方が間違いってもんでしょ?」
低い声で問い掛ける山崎にそう答えた山里の口元には、先程の酷薄な笑みが戻っていた。
「……もう一つ訊くけど……それ、黒い欠片の力?」
その問いに、山里は無言で首を縦に振る。
「結構持ち主の意思に左右されるらしいね、欠片の力って……ほら、俺の石って攻撃向きじゃないし、そこら辺も関係してるんじゃない?」
武器用意する手間省けたし。
あっけらかんとそう口にする山里に眉を顰めながら、山崎は周囲に視線を廻らす。
屋上に足を踏み入れた時目に留めた扉の傷と、所々にあるフェンスの破れ目は、恐らくは試し斬りの跡なのだろう。
追い討ちを掛けず、そんな山崎の様子をじっと見ていた山里は、すっと目を細めた。
「……やけに落ち着いてんだね、殺されそうなのにさ」
口元の笑みは消えていないが、その声は少しだけ不服そうに聞こえる。
その事に思わず笑みが零れそうになるのを堪えながら、山崎は口を開いた。
「山ちゃんには山ちゃんの生き方があるし、あたしにそれをどうこうする権利なんてないやろ? その代わり、あたしもあたしの生き方を貫かせてもらってるだけや」
そう言い切った瞬間、向けられていた斬り付けるような冷たい眼差しが、僅かに揺らいだ。
「……ここで全部終わりにするのがしずちゃんの生き方?」
沈黙のあとの言葉はほんの少しの動揺を含んでいて、それを感じ取った山崎は堪え切れずに頬を緩める。
「そういう事やないよ。まだまだやりたい事は沢山あるし、大人しく殺される気も更々ないで? あたしはただ、立ち向かいもせずに他人のやり方真っ向から否定するような卑怯な真似、したくないだけやから……勝負はやっぱり、ガチンコやろ?」
しっかりとした口調でそう告げると、その言葉を聞いた山里は少しだけ困ったように目を伏せ、酷薄な笑みをぎこちない苦笑に変えた。
「しずちゃん、強いね。……よっぽど心が綺麗な人間じゃないと言えないよ? そんな事」

――あたしだってそんなに強くはないよ。

言い掛けたその言葉を飲み込み、恐怖による手の震えを、拳を握り締めて押さえ込む。
口で言っただけでは駄目だ。山里がそれを認められなければ、意味がない。
「――そういうとこ、大っ嫌いだ」
張り付いたような苦笑を浮かべたまま、口調だけが変わる。まるで吐き捨てるように。
その様子を見た山崎は笑みを消し、眉を剣呑な角度に釣り上げた。
今までのやり取りを振り返って、その目に含まれた痛い程の諦めの意味を、なんとなく理解出来たような気がした――だからこそ、全てを諦めたその目に腹が立ったのだ。
自分は山里が思う程強くはないし、山里も自分自身で思っている程弱くはない。
ある程度の弱さ――例えば卑怯さや利己心など――は大抵の人間が持っているし、その弱さが必要になる時もある。
それに、山里が利己的なだけの人間ではないと知っているからこそ、自分はなんだかんだ言いつつ彼の相方を続けているのだ。
いつもは怒られると女々しく言い訳ばかりしている癖に、と苛立ち半分に思う。
自分自身に言い訳してごまかしてしまう事も出来たはずだ。それとも、黒い欠片に侵食された心は自分自身に言い訳する事さえ許さなかったのだろうか。

目に見える距離という意味ならば、自分達はいつも手を伸ばせばすぐに届く程近くに居た。
けれど――今は、近くに居るにも関わらず酷く遠いと感じる。
重苦しい沈黙が流れる中――山崎は、手の震えを押さえる為に握り締めた拳に、一層強く力を込めた。